世界遺産と日本/世界の町並み w/IT

世界遺産と日本/世界の個性的な町並みをITを交えた筆致で紹介します。

神戸の平野は平家が栄えていれば文化の中心地だったかもしれません

2012-11-25 08:00:00 | 日本の町並み
 町中に自噴井戸が分布していて、上水道は不要と言われる町が伊予西条でしたが、各地に上水道はたくさんあっても、上水道の博物館は、さほど多くはありません。今回は、その中から、かつての浄水場の上屋を利用して作られた「水の科学博物館」のある、神戸市の平野界隈を紹介します。

 
 平野は、神戸市兵庫区の中央部の東寄り、だらだらと上ってきた市街地が、背後の山に突き当たるあたりにあります。「水の科学博物館」は平野の東側、中央区に接するあたりにあり、間口が50mもあるドイツルネサンス様式の堂々たる建物です。この建物は、大正期に奥平野浄水場急速濾過場の上屋として建てられ、神戸の背後にある3箇所のダムからの水を浄化し上水道として供給していました。かつて、船に積んで赤道を越えても腐らない水と言われた神戸ウォータは、奥平野浄水場や北野浄水場から供給されていたわけです。酒造りのための宮水と同様に、六甲山系の花崗岩で濾過された水道水はおいしい水の代表格でした。しかしながら、現在の神戸市の水は大部分が淀川の水で、六甲山の北側にある千苅貯水池からの水はごく一部のようです。

 水といえば、金泉、銀泉が湧出して全国的に有名な有馬温泉への有馬街道は3本ありますが、神戸からは平野を起点として天王川沿いに上る国道428号です。六甲山塊がくびれて南に開いた平野は、水だけでなく人間が南北に通り抜ける場所だったようです。

 今年の大河ドラマの平清盛は、人気が出ないままに終了しそうですが、その清盛が建てた雪見御所跡が平野にあります。湊山小学校の校庭の隅に、自然石を利用した記念碑が建てられています。平野は平安時代にも、交通の要だった場所ゆえに、清盛も居を構えたのかもしれません。時代が進んで、幕末には神戸港に海軍操練所を開設した勝海舟も平野に寓居(ぐうきょ:仮住まい)を構えました。当時の建物などが残されていましたが、今年の5月に解体されてしまいました。

 清盛というと京都の六波羅蜜寺の木造が有名ですが、その近くに六道参りの珍皇寺があり、お寺のある辺りが「六道の辻」と言われています。ところが、平野にも「六道の辻」なる場所があります。こちらは天国の入り口でも地獄入り口でもない単なる六叉路でした。人が集まると、道路も集まってくるようです。




 
 
 道路といえば、道祖神の塞神の碑が六道の辻の近くにあります。邪気をはらう神様として村の入り口に建てられたそうです。ちょうど有馬街道の入り口あたりに建っているところから道しるべの役割も持っていたようです。平野には道祖神という神様だけでなく、祥福寺や、五宮神社それに昇天教会など宗教施設もいろいろとそろっています。祥福寺はたくさんの修行僧が修行をしている現役の道場ですし、五宮は市内に一宮から始まって八宮まである神社の一つです。その中の三宮だけが駅名にもなるほど有名になりました。いっぽう、昇天教会は、市内でもっとも古い教会の一つで、かわいらしい建物は、映画のロケにも使われました。教会で結婚式をあげたカップルが、不幸にも離婚ということになると、通りの西には家裁もあります。

 清盛の建てた雪見御所は、平家滅亡の時に建物を焼き払って落ち延びたと言われています。このためかどうか、雪見御所跡を特定できるような遺物はあまり見つかっていないようです。遺物が出てきたときに、その遺物の年代の推定は重要です。出てきた地層から推定する方法などもありますが、遺物が動植物の場合には放射性炭素の量を測定する手法が良く知られています。生物体が死んでからの時間を、炭素14の半減期を利用して、遺物からの放射線を測定して推定するものです。ところが、核実験などで人類が空気中に放射能を振りまいた結果、1954年以降の遺物を炭素14を利用して測定するのは無理だろうといわれています。