因幡屋ぶろぐ

劇評かわら版「因幡屋通信」主宰
宮本起代子による幸せの観劇記録。
舞台の印象をより的確により豊かに記せますよう・・・

May『十の果て』

2011-02-27 | 舞台

*金哲義作・演出 公式サイトはこちら 新宿タイニイアリス 27日まで
 アリスフェスティバル参加公演/May劇団タルオルム連続公演 
 25日の劇団タルオルム『金銀花永夜』に続いて観劇。同じ劇作家・演出家によることがにわかに信じられないほど、雰囲気はまったく異なる。太平洋戦争が終わり、朝鮮戦争の足音が次第に高まるなか、朝鮮人だが祖国の言葉があまり話せないタルス(木場夕子)と、朝鮮の地でふた親を亡くした日本人光太郎(田中志保)の交わりに、タルスが幼いころ兄の膝の上でみた映画『丹下左膳』の世界を絡ませながら、思想弾圧だけでなく、鬼神(?)と呼ばれる魑魅魍魎たちとの大立ち回りをみせつつ、タルスが肉親と祖国に別れを告げ、光太郎とともに新天地日本にたどりつくまでを描く大活劇である。
『丹下左膳』のなかで、左膳が親を殺された少年を伴って歩いていたとき、殺した相手に出くわし、少年に「目をつむって十数えてろ」と言い聞かせ、そのあいだに相手を斬ったというくだりがあり、今回の舞台のタイトル『十の果て』はそこから来る。
 

 作者の金哲義じしんに、子どものころ訪れた祖国で軍服を着た従兄が敬礼をする姿に衝撃を受けた経験があり、主人公のタルスと北からやってきた軍服姿の兄(野村侑志/劇団オパンポン創造社)に色濃く投影されている。タルスの両親は朝鮮がずっと日本の統治下にあると予想して、息子を日本語を教える学校に行かせたために、財を失い、同胞からは親日派と嫌われた。一方光太郎はタルスよりも朝鮮語に堪能で、3歳までしかいなかった日本に対して複雑な思いを抱いている。注:本作は全編日本語によって演じられるが、登場人物が話しているのは「朝鮮語」であるという設定だ。

 少年たちを演じるふたりの女優が素晴らしい。俳優が本人と違う性の役を演じる場合、作者の意図や作品の意味が必ずあると思いがちであるし、また実際にそうであることが少なくないが、今回の場合こちらがわの深読みや裏読みなどぶっとばすほどふたりの少年は生き生きしており、舞台ぜんたいの疾走感がこちらの気持ちをかきたて、少年たちが何とか日本に行けるよう手に汗握る興奮を与える。

 疑問に感じたのが、兄タルセンに巻き舌のべらんめえ調で話させている点である。兄に丹下左膳を投影させる造形であるにしても、軍服がよく似合っているのにどこかのちんぴら風に見えてしまい、聞きとりにくい台詞も多く残念であった。またこの作品の空気にまったくそぐわない(と自分には思える)ギャグ的な場面が唐突にあって、しかも俳優のアドリブや素に戻って笑っているところもあり、なぜこういう演出をしたのか理解に苦しむ。追いつ追われつの緊張感の強い物語のなかに、多少遊びの要素も取り入れて気分転換を図りたいのだろうか、しかし結構長く続くアドリブには必然性が感じられず、気持ちのよいものではなかった。せっかく作り上げている劇世界を、みずから壊すようなものではないか。

 やっとのことで日本にたどりついたふたりだが、はじめて目にする日本はあたかも異形の彷徨う国であり、これから彼らが歩く道が困難を極めることを予想させて舞台は終わるが、終幕の心持ちはさわやかで、千秋楽のカーテンコールは民族音楽に合わせ、『金銀花永夜』の出演者も総出で晴れやかに踊る祝祭的なものになった。
 タルスと光太郎の物語は、金哲義がどうしても生み出さなければならなかった物語なのだろう。自分がどこから来たか、どこへ行こうとしているのか。自分はいったい何なのか。劇作家としての必然性が強く伝わってくる舞台であり、手法に走りがちな昨今の小劇場のいくつかを思い出すと、火傷しそうなくらい熱く激しい。劇作家の必然を自分の必然とするにはまだまだこちらの頭と心の鍛錬が必要だ。これからもMayの舞台、金哲義の作品を背筋を伸ばして見守りたい。

コメント    この記事についてブログを書く
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 劇団イナダ組東京公演『第3柿... | トップ | 因幡屋2月の覚え書き »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

舞台」カテゴリの最新記事