私たち保守民族派にとっては、天皇制というのは、三島由紀夫が林房雄との対談で「僕の天皇に対するイメージは、西洋化の最後のトリデとしての悲劇的意志であり、純粋日本の敗北の宿命の洞察力と、そこから何ものかを汲みとろうとする意志の象徴です」(『対話日本人論』)と述べているように、揺るがすことができない変革への理念であり、最終的に守るべき拠り所である。現実のザインとしての天皇陛下と、あるうべきゾルレンとしての天皇陛下に、隔たりがあることは、今さら始まったことではない。しかし、戦後は開かれた皇室になったことで、なおさらその威厳を貶めてしまったのではないか。三島さんが死ぬことによって訴えたかったのは、天皇こそが「西欧化の腐敗と堕落に対する最大の批評的拠点になり、革新の原理になり給うことです」(同)という確信であり、美意識に裏付けられたパトスであった。政財界ばかりでなく、マスコミも学界も、全てが信用を失ってしまったのが平成の世ではなかろうか。そんななかで、西洋化に毒されずに、日本人がつつましい生活を維持するためには「ひとしく仰がざるを得ない精神的権威」(葦津珍彦著『「国体問答」より』)が大事なのである。葦津も取り上げていたが、西行が歌にした思いのたけこそが重要なのである。
何ごとのおはしますかは知らぬども
かたじけなさに涙こぼるる
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