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 ♪ラジオ放送・文字版「世の光」

   1952年以来、キリスト教会が協力して全国民放ラジオで放送して73年、
PBA『世の光』を文字で 

■天をさして誓う / 福井 誠

2012年11月22日 | Weblog
2012/11/22放送

 世の光の時間です。いかがお過ごしでしょうか? 福井 誠です。今日のバイブル・メッセージは「天をさして誓う」です。それではマタイの福音書23章21節22節から読んでみましょう。
 「神殿をさして誓う者は、神殿をも、その中に住まわれる方をもさして誓っているのです。天をさして誓う者は、神の御座とそこに座しておられる方をさして誓うのです。

 天を指して誓うというのは天に賭けて誓うというふうな言い方をしても良いと思いますが、当時の宗教家は誓いには二つのものがあるとしました。必ず果たすべき誓いと果たさなくても良い誓いです。

 例えば神殿や祭壇をさす誓いは都合によって変えることがあっても良いけれども神殿の黄金や祭壇の上の供え物をさして誓ったらその誓いは必ず果たさなくてはいけないと教えたのです。誓いにこんな区別を設けるとはどういうことかなと私は思いますが、皆様はどう思われますか? 神殿を指して誓うことと神殿の黄金を指して誓うことがどう違うものか、また祭壇を指して誓うことと祭壇の上の供物を指して誓うことがどう違うのか。

 誓うという行為はそれ自体重要なことで本当は何を指したとしても必ず果たされるべきもののように思いますねえ。しかし彼らはこうして区別を設けたのは実は彼らの私利私欲・貪欲さのためでした。つまり神殿の黄金というのは神殿に捧げる黄金のことです。いけにえも神殿に捧げるいけにえのことです。つまりユダヤの宗教家たちは巡礼者の誓いよりも彼らが持ってきた黄金やいけにえに関心があったのです。巡礼者がささげ物を持ってきて誓ったなら、もうそれは絶対変えてはいけない。必ず置いていきなさい。捧げ物が無いなら特にこだわらなくてもよい、という何かとてもひどいお話ですねえ。ユダヤの宗教家は捧げ物欲しさに誓いに差があるような言い方をしてしまいました。

 イエスはそのように神様の教えが彼らの欲によってゆがめられている問題点をはっきりと指摘したのです。そして誓いについての正しい考え方を示しました。誓いは捧げ物のあるなしにかかわらずどれも重要で必ず果たさなくてはならない。もっと簡単に言えば、約束というのは守るためにあるものですね。

 小さな約束、大きな約束はありません。聖書に正しく教えられて人間として良識のある歩みをさせて頂きたいものですね。

(PBA制作「世の光」2012.11.22放送でのお話より )

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 さて、この番組を制作しているPBAの「世の光」の係りでは分りやすい聖書通信講座を用意していて、初めての方には無料の入門コースがお勧めとの事。詳しくはPBAに案内書を申し込みましょう。日曜日に教会を覗いてみるというのはお勧め。こっそり覗きたければ一人で。それとも友だちをけしかけてつるんでもいいし。日曜日は大抵、朝10時か、10時半頃からお昼頃まで集まっていて誰が行ってもオーケー。事前の連絡なしでもちょっとのぞかせてくださいと言えばいいでしょう。PBAに聞くと近くの教会を紹介してくれるので、気軽に問い合わせるといいでしょう。問い合わせ先は、mail@pba-net.comです。

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