14日(日)、加東市家原の観音寺で赤穂義士祭が行われました。観音寺辺りは「赤岸」とよばれています。寺の前の交差点の名も「赤岸」です。これは「赤穂義士」が訛ったものといわれています。上の写真は本堂にある義士の人形です。四十七士の墓碑は境内の本堂の北側に菩提所があり、中央に浅野内匠頭、両脇に大石父子、周囲に義士の墓碑がぐるりと取り巻くように並んでいます。
地元の人々は「義士祭」と呼んで、この日は観音寺にお参りし、四十七士の墓碑に線香を手向け、甘酒をいただき、福引きをするのを楽しみとしています。この義士祭を中心になって担っているのは、地元の家原地区と社連合区、加東市観光協会、加東市商工会など、義士奉賛会の皆さんです。義士祭では、市内の寺院の僧侶による追善法要のほか、少年剣道大会や中学駅伝大会などが開かれます。ちなみに昨日の義士祭の行事は次の通りです。
8:30~ 観音寺境内で甘酒の接待と福引きが開始。
9:00~ 境内本堂前で、第60回加東市中学校駅伝大会の開会式。
10:00~ 観音寺近くの田園コースで駅伝大会がスタート。
11:00~ 義士追善法要(観音寺本堂、四十七士の墓碑)
14:00~ 社少年剣道大会(観音寺に隣接する薬師堂前の広場)
ところで、赤穂義士祭といえば、赤穂市の義士祭が有名ですが、加東市の観音寺の義士祭も古い歴史をもっており、昭和の初めには青年団による義士祭が行われています。
赤穂義士の墓といえば、東京高輪の泉岳寺、赤穂の花岳寺が知られていますが、実は、加東市家原の観音寺の四十七士の墓碑は、それらに劣らない立派なものです。これまで遠くから訪れた人は皆一様に驚いています。そもそもなぜこの地に赤穂義士の墓碑があるのか、とよく問われます。その由来は次の通りです。
家原浅野家の領地だった
「刃傷松の廊下」のせりふの一節に「浅野五万三千石家来も所領も捨てての刃傷でござる・・・」とありますが、赤穂浅野家の領地は5万3千石でした。その内訳は、赤穂郡3万5200石(119ヶ村)の他に、加西郡8920石(33ヶ村)、そして加東郡(現加東市、小野市域)8201石(24ヶ村)、佐用郡1200石(5ヶ村)という構成になっていました。
加東郡の領地のうち、現加東市域に23ヶ村があり、加東市は赤穂浅野藩ととても強い結び付きがあるということです。加東市内の村名を挙げると、上三草、下三草、牧野、曽我、多井田、北野、穂積、○垂水、○窪田、○中村(上中)、○北村(喜田)、○梶原、木梨、○家原、○鳥居、○田中、○貝原、河高、野村、上田、○福吉、大門、○沢部の23ヶ村にのぼります。加東郡の領地には郡代がおかれ、赤穂義士の一人、吉田忠左衛門が加東郡代を務めていました。(このうち、○印の11ヶ村は家原浅野家に分知されました)
150回忌に民衆の寄附で建立された四十七士の墓碑
1671年、浅野長賢(ながかた)に加東郡内の領地3千5百石が分けられ、旗本・家原浅野氏がつくられました。家原には陣屋(役所)もつくられ、その後、家原浅野氏は明治維新の廃藩までの七代、約200年続きました。観音寺はいつ建てられたかははっきりしませんが、家原浅野氏がつくられた頃だと考えられています。浅野氏の祈願所・香華所であったようです。社の市街地にある善龍院は家原浅野氏の菩提所とされ、住職が観音寺の住職を兼ねていました。加東市家原の観音寺に赤穂義士の墓碑が建てられたのもこうした浅野家の領地だったという経緯があります。墓碑が建立されたのは、さらに時代が下って、義士切腹から150回忌にあたる弘化4年(1858)、赤穂義士の墓碑が建立されましたが、善龍院の僧であったとされる明範が寄付を募り、義士を偲びその忠義を称える多くの人々の寄附で建立されたとされています。その経緯は、境内の四十七士の菩提所の入口脇にある大きな石碑、「薦誠碑」に刻まれています。明範の依頼で家原浅野氏の当主である浅野長祚(あさのながよし)が書いたものです。
東京の泉岳寺、赤穂の花岳寺ともう一つ、四十七士の墓があるのはこの家原観音寺の三ヶ所だけです。しかも、義士150回忌に際して義士の忠誠心を讃えて郷土の民衆の寄附によって建立された墓碑であるという特色をもっています。郷土の歴史を伝えるこの義士祭をこれからも次代に伝えていきたいと思います。