ふるさと加東の歴史再発見

少し気をつけて周囲を見回してみると、身近なところにふるさとの歴史を伝えるものがある。

多田池の伝説

2011年04月18日 05時24分33秒 | Weblog
 加東市藤田地区には、木梨神社、小山寺をはじめ、逆川など古い歴史や特色ある自然が残っています。また、このブログでも紹介した「大とんど」など、地域の伝統や文化が大切に継承されています。
 なかでも今日紹介する多田池伝説は謎に満ちており、興味津々の伝説です。藤田地区には昔、多田池という大きな池があり、この池に棲んでいた大蛇退治の伝説があり、その痕跡として、逆川や蛇ころびなどの地名も残っています。
 この話は小さい頃から聞いて知っていましたが、大蛇の大きさや池がどこにあったんだろうとか、謎は残ったままでした。
 今回、4月10日に三草ふれあい広場主催のわくわく探検が藤田地区で行われました。木梨神社で宮司さんのお話を聞いたとき、神社に宝物として保存されている大きな木の樋の一部が公開されました。そして、池があった場所や、堤があった位置などを教えていただくことができました。「池は本当にあったんだ。」謎の一つが解けたような新鮮な喜びがわいてきました。驚いたのは、堤が、木梨神社のあたりから、藤田地区の集落の東端をなぞり、南の台地につながる大きな谷をせき止めるものだった、ということです。今は県道、そして中国縦貫道が東西に通り、さらに千鳥川が流れているので、そうした大きな堤があったとはとても想像できませんが、竹藪や小高いところが残っているので、それらをイメージの中でつないでいくと、巨大な堤が見えてきました。しかし、そうなると、この池はとてつもなく大きな池になってしまいます。千鳥側のさらに上流、東隣の米田地区は池の底になってしまいます。そんな大きな池が本当にあったのか、という新たな疑問もわいてきした。
 また、この多田池がつくられたのはいつのことなのかということも知りたくなります。多田池の名は築造した多田満仲から付けられています。多田満仲は摂津の川西あたりを本拠とする多田源氏の源となった武将で10世紀に活躍した人物です。摂津の国の国司として土地の開発を行ったことで知られていますから、池をつくったということは考えられるのですが、この地を領地としていたのでしょうか。
 4月10日、見せていただいた木の樋の一部は、池の築造から数百年経った江戸時代に元の池の底にあたる田の土の中から掘り出されたものであるという。池が築かれた昔はこれだけの木の樋の元になる大木が周辺に生えていたのだろうということです。
 それにしても、多田池のことはもっと詳しく調べてみたくなりました。
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