ヴェルディ:歌劇「椿姫」
指揮:ファビオ・ルイージ、演出:ウィリー・デッカー
ナタリー・デセイ(ヴィオレッタ)、マシュー・ポレンザーニ(アルフレード)、ディミトリ・ホヴォロストフスキー(ジョルジュ・ジェルモン)
2012年4月14日 ニューヨーク・メトロポリタン歌劇場 2013年2月 WOWOW
ナタリー・デセイの椿姫は2011年のエクスアン・プロヴァンスでその素晴らしい歌唱と演技を体験することができた。
今回の演出はあの屋外での演出とは大分違うけれど、時代を反映した具象的な舞台ではなく、このストーリーと音楽に聴衆を集中させるものであることは共通している。
舞台はほとんどが半円形の色はグレー系のもの、その中にあるものといえば壁に沿って続く座席と、場面によって現れる同色のソファー、ヴィオレッタとアルフレードが一緒の住み始めた時だけにそれにかかる花柄のカバー、そして進行と時間的な切迫を象徴するかに見える大きな時計、そのくらいだ。
そして衣装、ヴィオレッタは赤の袖なしドレスに赤いヒール、それを脱いだ時の白いシュミーズ、小間使いにかけてもらう黒のガウン、他の人たちはほとんどすべて黒という割り切ったもの。最初の乾杯の歌などパーティの参加者たちすべて黒のスーツで、そこでは女たちも同様に男装の麗人風である。誰がフローラだかわからないほど。
つまりすべてがヴィオレッタに集中している。これはデセイを前提としてのものかもしれない。それほど彼女は最初から最後まで聴くものをつかんで離さない。いつもベルカントのレパートリーでその歌唱のなかでとびぬけてドラマティックな表情を見せる人だが、それがこの役でも最大限の効果を出している。ヴェルディの他の大作とはちがって、ここでは彼女の独壇場。
この作品、こうして観ると、脚光を浴び華やかな生活をしていた女が、ちょっと違った生真面目な男と出会い、男は夢中になり、しかし女というものを知らない男は、家族の対面を第一とするその父親の女への説得に負け、自暴自棄となり、女は病の果てに息絶えそうになり、その直前に相手の父と子が理解を示し戻ってくるが、もう遅く死んでしまう、という話は、その展開の納得などどうでもいいことになる。
聴く者は、観るものは、ヴィオレッタの華やかな生活、得意満面なふるまいと歌、それも肯定して楽しみたいのである。もちろん最後は悲劇で終わるから免罪符があるのだが、それはそれだけの話。
そういう女の人生を、デセイに入り込んで味わうなんという幸せ。
アルフレードとジョルジュ・ジェルモンはまずまず。ただ後者はちょっと偽善者であるにしても、最初からなんとなく悪そうに見えるのはちょっと、、、
ところで終盤のある部分でデセイの声が少しハスキーになる。思うにこれは疲れたからでなくこの場に即した表現なのだろう。喉への負担ということを考えれば、頭声できれいに出す方が楽なはずで、ここで胸声つまり地声はむしろ喉に負担がかかるのだが、見事。
あらためて思う、ヴェルディの最高傑作。