モーツアルト:歌劇「フィガロの結婚」(2006年ザルツブルク音楽祭)
指揮:ニコラウス・アーノンクール、演出:クラウス・グート
アルマヴィーヴァ伯爵:ボー・スコウフス、伯爵夫人:ドロテア・レシュマン、フィガロ:イルデブラント・ダルカンジェロ、スザンナ:アンナ・ネトレプコ、ケルビィーノ:クリスティーネ・シェーファー、ケルビム:ユリ・キルシュ
新しいフィガロの舞台を見るのは久しりだが、グートの演出からはたくさんのものがこちらに入って来た。過激であり、物語と歌詞の読み方としてラディカルであり、説得的である。
衣装も舞台もボーマルシェ原作の時代よりほとんど現代に近いものだし、登場人物特に男女の関係は、その間柄が少し言及される場合は必ず過去に関係があったか、その場でセックスにおよぶというように演出されている。
そしてこれはグートの発案らしいのだが、ケルビムというケルビーノと紛らわしい名前のキューピットまがいの無言の天使役を設け、登場人物の心象の強調とその先取りをする。
だから、このかなり長く、決してわかりよくない、我慢が必要なオペラから明確なメッセージが出てくる。そして、アーノンクールの指揮による音楽は平均してゆっくりしたテンポでその表現をかなり強調したものになっているが、舞台を見ていると気にならない。
こうやって見ていて思うのは、このオペラの核心は前半にある、つまり男と女の本質がこう見せられては、どきっとするものの認めざるを得ない、というシーンの連続であるということだ。
特にケルビーノの描き方はモーツアルトの独壇場である。「恋とはどんなものかしら」では、伯爵夫人とスザンナと彼が三人でセックスにおおよんでいるような演出がされる。そうなると以前から指摘されているもっと前に歌われる「自分で自分がわからない」というそのわからないものとは少年が自分でコントロールできない困ったもの、つまり男性器、性衝動をあらわしていることとまさにつながっていることが納得される。そしてモーツアルトのこの二曲が同じ根から出ていることにも気がつきやすい。
モーツアルトという人はワーグナーよりこんなに先に、さらに深遠を描いていたのだろうか。
それに比べると後半は話をまとめるためとは言わないまでも、そういう男女の本質でありながら人間関係を再度構築していく段階なのだろうか。最後の女達による男達を結果として懲らしめる芝居、こうして聴いてみると、それぞれが「許して」といい、最後に伯爵だけが残ると必然的に彼も「許して」といわざるを得ない、それも地位としては頂点であるからなおさらことさら真摯に歌うことを要求される、と言われることも今回納得できた。
歌手では、伯爵のボー・スコウフス、スザンナのアンナ・ネトレプコ、ケルビーノのクリスティーネ・シェーファーが、歌唱、演技、姿ともにぴったりである。
アーノンクールの指揮は演出の意図とよく合い、その範囲ではひねったところはない。しかしこの演奏でハイライトを音声だけで聴いてもそんなに面白くはないだろう。不思議なもので、この出演者でスタジオ録音するといいのかもしれない。