銀河を渡る 沢木耕太郎 著 新潮社(2018年9月)
著者にによるまとまった作品ではない、比較的短いノンフィクション、つまりエッセイの集成である。この種のものにはこれまで「路上の視野」と「象が空を」があり、後者の1993年以降約25年間のものを、談話・書評を別として(これらは別途刊行)がここにある。
沢木の本は、特に初期から主要なものの大半を、途中から書き始めたフィクションの一部は別として読んできた。特に単行本化としては確か2冊目の「敗れざる者たち」(1976)で、これは他とちがうと思ったのがはじまりであった。
この人は対象に対するアプローチについて、熱くなりすぎないが、持続力があるというか、それによって通常見逃しがちなものも拾っていく結果的な執拗さがあって、それが全体としては明確な像を結んでいる、といった印象を受ける。
今回は、沢木の著作活動のかなり私的な面、世話になった編集者などについて、また日常生活の周囲、時に家族も含めたかかわりについても、以前より興味ある話が拾われていて、「ああそうだったか」と思う場面がいくつかあった。
もう70歳にもなれば、いくつもの「別れ」が出てくるのも当然だが、いわば市井の人、意外な関係の有名人などとの出会いと別れの文章は、他のものと比べ、違った味があり、いい文章である。
沢木が、書くこと以外に欲がない、旅というか移動は多いがさっぱりした生活を送って来たことは、知っている。ある時期のボクシングとギャンブル(バカラ)については例外だが。
ただし、こういう行き方をかっこいいと、読者のみならず著者本人も多少は思っているように、こうして多くのエッセイを読んでいると、思われる。それは自然なことだが。
これから、一つの対象に集中して作品を著すことがあるのかどうか。期待はするが、これまでのようにはどうか。
最近、そういう読みたいノンフィクションは、私の年齢もあるかもしれないが、少なくなってきた。いまのところ最相葉月くらいだろうか。
著者にによるまとまった作品ではない、比較的短いノンフィクション、つまりエッセイの集成である。この種のものにはこれまで「路上の視野」と「象が空を」があり、後者の1993年以降約25年間のものを、談話・書評を別として(これらは別途刊行)がここにある。
沢木の本は、特に初期から主要なものの大半を、途中から書き始めたフィクションの一部は別として読んできた。特に単行本化としては確か2冊目の「敗れざる者たち」(1976)で、これは他とちがうと思ったのがはじまりであった。
この人は対象に対するアプローチについて、熱くなりすぎないが、持続力があるというか、それによって通常見逃しがちなものも拾っていく結果的な執拗さがあって、それが全体としては明確な像を結んでいる、といった印象を受ける。
今回は、沢木の著作活動のかなり私的な面、世話になった編集者などについて、また日常生活の周囲、時に家族も含めたかかわりについても、以前より興味ある話が拾われていて、「ああそうだったか」と思う場面がいくつかあった。
もう70歳にもなれば、いくつもの「別れ」が出てくるのも当然だが、いわば市井の人、意外な関係の有名人などとの出会いと別れの文章は、他のものと比べ、違った味があり、いい文章である。
沢木が、書くこと以外に欲がない、旅というか移動は多いがさっぱりした生活を送って来たことは、知っている。ある時期のボクシングとギャンブル(バカラ)については例外だが。
ただし、こういう行き方をかっこいいと、読者のみならず著者本人も多少は思っているように、こうして多くのエッセイを読んでいると、思われる。それは自然なことだが。
これから、一つの対象に集中して作品を著すことがあるのかどうか。期待はするが、これまでのようにはどうか。
最近、そういう読みたいノンフィクションは、私の年齢もあるかもしれないが、少なくなってきた。いまのところ最相葉月くらいだろうか。