メドレー日記 Ⅱ

by 笠羽晴夫 映画、音楽、美術、本などの個人メドレーです

ショスタコーヴィチのヴィオラ・ソナタ

2006-11-19 21:40:34 | 音楽一般

ショスタコーヴィチ(1906-1975)のヴィオラ・ソナタ(作品147)をはじめて聴く。作曲家 最後の作品で、死のまもなく後に初演されたそうである。

この人の後期の特に独奏曲、室内楽は純粋に音楽的とでもいうようになり、いわゆる20世紀現代音楽を聴いていればむしろ交響曲より入っていきやすいようだ。彼の国家、党などとの葛藤は、頭に入れないようにはしても雑音として入ってくることが多いが、こういう曲だと、気にならない、無視できる。
 
曲は、モデラート、アレグレット、アダージョの3つに分かれているが、楽章という形ではなく、30数分連続して演奏される。
最初のアダージョは、始まりからしばらくヴィオラのピチカートとピアノの呼応が印象的で、ピアノによる楽想の展開も荘重でスケールが大きい。
次のアレグレットは少し明るさもあり躍動的。
そして問題の長いアダージョ、ここでは明らかにそれとわかるようにベートーヴェンのピアノ・ソナタ「月光」冒頭のメロディーが使われ、何か作曲家の頭から離れない強迫的な想念のように、ヴィオラとピアノで繰り返し綴られていく。

これが、自身の音楽的な成り立ちを振り返るものなのか、何かある時期のことを思っているのか、引用するからには何か意味はあるはずだが、それが特定できなくても、そういう捨てられない何かと、それを見つめる目、それがいまあること、それらについて、聴くものに何かが沈殿していく。もしかしたら作曲することによって、彼にその何かが明らかになったのか。
 
聴き終わってしばらく後、さてこういうのは他の作曲家にもあったなと思い出したのが、リヒャルト・シュトラウス(1864-1949) が1945年ナチス崩壊直後に作曲した「変容(23弦楽器のためのメタモルフォーゼン)」、ここに出てくるのはベートーヴェン交響曲第3番「英雄」(エロイカ)葬送行進曲のテーマ。従ってわかりやすいはずなのだが、それでもそういう第一次的な示唆を超えた次元に連れて行く。
 
つまり、何か知られている曲を使ってこういうことをやる、それはあまり表面的な意味にとらわれて聴かなくてもいいということだろう。
 
少し前に買ってきたこのCDはメロディア製作(プレスもロシア)で、ヴィオラがユーリ・バシュメット、ピアノがスヴャトスラフ・リヒテル、同じ作曲家のヴァイオリン・ソナタがオレグ・カガンのヴァイオリン、同じくリヒテルのピアノでカップルされている。後者はダヴィッド・オイストラフ60歳誕生日に捧げられた曲で、オイストラフとリヒテルによる録音(1969)も聴いたことがあるが、今回はそれよりさらに振幅の大きいものとなっている。
それぞれ1982年、1985年のライブ録音。
 
ショスタコーヴィチはかなり人気があるけれども、生誕100年の今年のうちに地味な作品のCDは買っておこうかと探したら、あると思っていなかった上記の演奏者のものが見つかり、好運だった。

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