オッフェンバック:歌劇「ホフマン物語」
指揮:アラン・アルティノグリュ、演出:クンシュトフ・ヴァルリコフスキ
エリック・カトラー(ホフマン)、パトリシア・プティポン(オランピア/アントニア/ジュリエッタ/ステルラ)、ミシェル・ロジェ(ニクラウス/ミューズ)、ガーボル・ブレッツ(リンドルフ/コペリウス/ミラクル)
ベルギー王室モネ劇場(ブリュッセル)2019年12月17、2020年10月 NHK BSP
欧米では人気があってよく上演されるようだが、2009年メトロポリタンの上演のところでも書いたように、個人あるいは日本人のバックグラウンドが違うせいか、場面の隅々まで楽しめるというわけにはいかない。
詩人ホフマンが、何度も恋に破れ、おそらく詩にも行き詰まり、友人ニクラウスの導きで過去に愛した女性をそれぞれの場所・場面に訪ねていき、そこを支配している経営者、学者、父親などとやり取りをしながら女性に対するが、いずれもうまくいかず、最後倒れるが、ミューズがあらわれ、詩人として再生する。
といってもこれは私がうまくフォローできていないなかの解釈。詩にも恋にも行き詰まり、死に至るが、最後救われる、時によっては再生する、というスキームにあまりなじみがないのは確かだ。
解釈はともかく、5幕のそれぞれで、女性の、機械人形的な歌をはじめとする多彩なキャラクターと芸、酒場などそれぞれの場面での集団の盛り上がり、有名な「ホフマンの舟歌」など、気楽に見ていてもいいのだろうが、それでも欧米の観客のようにはいかない、残念ながら。
メトロポリタンでは、特に集団の演技が、世界に誇るコーラスを駆使して立派だったと記憶しているが、今回の演出は、その時代の感じに、ハリウッドの映画世界を組み合わせている?と解釈したが。例えば冒頭に「アビエイター」の一場面が流れる。ディカプリオ演ずるハワード・ヒューズが、成らなかった野望に想いをはせているのか?
カトラーのホフマン、歌唱はいいが、詩人としてはどうかという立派な体躯、愛した女性たちはすべてプティポン(メトロポリタンではキム、ネトレプコなど3人)、さすがである。
ロジェのニクラウス/ミューズだが、歌唱はいいけれど、演出の意図なのだろうか、メイク、ヘア、衣装がプティポンのそれぞれの役柄に似ていて、身長が少し高いから見分けはつくが、これはどういう意図なのだろう。女性たちに寄り添った感じを出したいのだろうか。これはメトのケイト・リンジーのズボン役風の方が、見せ方とてはフィットしていると思う。彼女が好みだからということもある。
オーケストラ、合唱はメトほどの迫力ではないけれど、まずまず。クレジットによるとコンサート・マスターは日本人女性のようだ。
指揮:アラン・アルティノグリュ、演出:クンシュトフ・ヴァルリコフスキ
エリック・カトラー(ホフマン)、パトリシア・プティポン(オランピア/アントニア/ジュリエッタ/ステルラ)、ミシェル・ロジェ(ニクラウス/ミューズ)、ガーボル・ブレッツ(リンドルフ/コペリウス/ミラクル)
ベルギー王室モネ劇場(ブリュッセル)2019年12月17、2020年10月 NHK BSP
欧米では人気があってよく上演されるようだが、2009年メトロポリタンの上演のところでも書いたように、個人あるいは日本人のバックグラウンドが違うせいか、場面の隅々まで楽しめるというわけにはいかない。
詩人ホフマンが、何度も恋に破れ、おそらく詩にも行き詰まり、友人ニクラウスの導きで過去に愛した女性をそれぞれの場所・場面に訪ねていき、そこを支配している経営者、学者、父親などとやり取りをしながら女性に対するが、いずれもうまくいかず、最後倒れるが、ミューズがあらわれ、詩人として再生する。
といってもこれは私がうまくフォローできていないなかの解釈。詩にも恋にも行き詰まり、死に至るが、最後救われる、時によっては再生する、というスキームにあまりなじみがないのは確かだ。
解釈はともかく、5幕のそれぞれで、女性の、機械人形的な歌をはじめとする多彩なキャラクターと芸、酒場などそれぞれの場面での集団の盛り上がり、有名な「ホフマンの舟歌」など、気楽に見ていてもいいのだろうが、それでも欧米の観客のようにはいかない、残念ながら。
メトロポリタンでは、特に集団の演技が、世界に誇るコーラスを駆使して立派だったと記憶しているが、今回の演出は、その時代の感じに、ハリウッドの映画世界を組み合わせている?と解釈したが。例えば冒頭に「アビエイター」の一場面が流れる。ディカプリオ演ずるハワード・ヒューズが、成らなかった野望に想いをはせているのか?
カトラーのホフマン、歌唱はいいが、詩人としてはどうかという立派な体躯、愛した女性たちはすべてプティポン(メトロポリタンではキム、ネトレプコなど3人)、さすがである。
ロジェのニクラウス/ミューズだが、歌唱はいいけれど、演出の意図なのだろうか、メイク、ヘア、衣装がプティポンのそれぞれの役柄に似ていて、身長が少し高いから見分けはつくが、これはどういう意図なのだろう。女性たちに寄り添った感じを出したいのだろうか。これはメトのケイト・リンジーのズボン役風の方が、見せ方とてはフィットしていると思う。彼女が好みだからということもある。
オーケストラ、合唱はメトほどの迫力ではないけれど、まずまず。クレジットによるとコンサート・マスターは日本人女性のようだ。