メドレー日記 Ⅱ

by 笠羽晴夫 映画、音楽、美術、本などの個人メドレーです

幕末史 (半藤一利)

2009-03-28 18:14:14 | 本と雑誌
「幕末史」(半藤一利)(新潮社、2009年12月)
  
450頁近くの分厚い本だが、これは著者が慶應丸の内シティキャンパス特別講座として、昨年12回にわたって話したことを、話し言葉のまままとめたものだから、読み進むのに難はない。
 
書評などで指摘されているとおり、新鮮で面白いのは、これまでの薩長から見た、それも階級的にはある程度上に限定した話としても明治維新はさも立派なものである、という枠組みでなく、江戸からみた、徳川からみた、そして多くの細かい事実を並べてみせた、ということである。
 
1930年の東京生まれだから、ものごころついたとき、東京は空襲で焼け野原、著者はそういう世代だ。
 
ペリー来航(1853)から西郷隆盛の死(1877)、大久保利通の死(1878)まで。
 
先に読んだ「日本語が亡びるとき」(水村美苗)でも書かれていたように、ペリーの来航というのは確かに日本史上でも大変な事件であって、このあと日本が植民地になっても不思議はなかったということはよくわかる。
  
開国か攘夷かというけれど、これはもちろんどう開国するかであって、単なる攘夷など、時代劇で喜ばれるだけのことであり、世界を知らないだけのことであった。
そして、幕府が、薩摩などいくつかの藩がどう動いたか、京都の公家は頭も力もなく、多くの藩士が入り乱れる中で、その金にたかっていただけの時期が続いたというのも、こうしてみるとなるほどと思われる。
  
各国からの圧力が続き、京都をかつぐさまざまな動き、幕府側のほころびがある。しかし現在のような通信手段もなく、江戸と京都、薩摩の間はまだ陸路が多かったから、半月から一月かかっており、そのなかで日本全体が、後世からみたように何かの理屈にそって動いた、などというわけはないのである。
  
この本読んでいくと、ごたごたは自然であって、後の戦争、そして今の政局のように、なんだか情けない人と人とのしがらみ、やりとりで世の中がうごいていったのだろう、と考えられる。
 
明治政府が出来たといっても、士族の扱い、廃藩置県、政府軍の編成など、強権を発動してすぐに出来たというわけでないことは、こうして説明されればなるほどなのだが、これまで読んできたこと、学校で教えられてきたことからは、そういう受け取り方はしてこなかった。
もっとも、高校の日本史では、このあたりになると時間がなく、あとは駆け足、または入試参考書を覚えるだけ、ということになってしまった。
 
昨年「篤姫」を見ていたが、これは薩摩から徳川に入り、それも大奥だから、武士よりは目の位置が生活圏に比較的近く、本書と一致するところが多かった。おそらく共通する資料が多いのだろう。
 
そうしてみると、著者のまた読者の好き嫌いは別として、世の中の動きを読み、いい意味で政治的な動きが出来たのは、大久保利通、勝海舟、岩倉具視の3人ということがいえる。坂本龍馬は早死にということもあるが、優れたところは感覚の部分といえなくもない。
 
この時期に、全国各地域が薩長とどういう間柄だったか、その後の人の輩出、現在までにいたる様々な事件に照らしてみると、いろいろ想像が出来て面白い。
 
「歴史」という「もの」はない。資料と記録、そしてそれらを選択し並べ意味づけたいくつかの本があるだけである。

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