シェーンベルク:浄夜 作品4 (1917年弦楽オーケストラ編曲、1943年改訂版)
ブラームス:交響曲第1番 ハ短調 作品68
カラヤン指揮ベルリンフィルハーモニー
1988年10月5日、ロンドン、ロイヤル・フェスティバル・ホール
BBC音源をもとにしたTESTAMENTのCD
第1番はブラームスの中でも、またドイツの交響曲の流れの中でも、大規模な迫力あるものの一つである。しかし、こんなにとてつもなくスケールが大きく、すさまじく激しいものとは思わなかった。
演奏は、なじんだ曲を計算し、見通しているというよりは、今回は進行そのままに、意識してここは抑えておくというところは見えず、おそれないで進んでいく。それに破綻せず応えられる、なんというベルリンフィルの能力、団員相互のそして指揮者への信頼!
実はこの曲、苦手であり、ブラームスでは、若いころに先ず第2が好きになり、第3はそれほどでもなく、第4は憂鬱になるばかり、第1は部分的にはいいけれど、くどく、しつこかった。カラヤンが万博(1970)で来日したときに聴いた第2は、他の日のドヴォルザーク第8とともに今でもよき思い出だ。
その後、マーラーを集中して聴き、ブルックナーは今でも苦手ではあるがこれも随分我慢して聴き、そうやっていると聴くほうも少しは変わってくるのか、ジュリーニが亡くなったとき(2005)、取り出して聴いた第4が素直に入ってきたのに驚き、それから第1も聴いてみると、ジュリーニ、そしてステレオ初期のカラヤン・ウイーンフィルで、なんとか味わえるようになった。
それでもこの演奏、全体がさらに一つ上のレベルで、細かいところでは第2楽章のオーボエ、第4楽章のフルートなど、誰だろうか。1960~1970年代には、オーボエはコッホ、フルートはそれこそニコレ、ゴールウェイ、ツェラー、ブラウなど綺羅星のようにいたけれど、それよりうまいのではないか。
カラヤン(1908-1989)最晩年、ロンドンでの最後のコンサートだそうである。パリでのコンサートの後、楽器の輸送がストライキで遅れ、コンサート開催すら危ぶまれ、リハーサルなしで1時間遅れて開始されたらしい。
だからどうだと断定は出来ないが、ブラームスはカラヤンもデビュー以来、終始レパートリーに入れており、ベルリンフィルとのコンビでも演奏回数がもっとも多い曲の一つ、やるべきことはわかっている。それでも、ホールも前日とは変わっていて、曲も同じだったかどうか。リハーサルなしというのは、注意力、特に互いに聴きあうことがより求められるだろう。
そういうときに集中できるのがオーケストラの能力の高さだし、そうやって自主的に動いたときに望んだ結果を引き出すのがカラヤンのカラヤンたる所以である。
またこのとき、オーケストラとの関係が最悪だった晩年の最後、それが解消していたという証言もあるようだが完全ではないだろうし、世間はまだそうは見ていない。むしろ、そうだからこそ、指揮者との人間関係で演奏がどうだこうだといわれることは、この際でもプライドが許さない。団員もそう思ったのではないか、これは想像だが。
シェーベルクの「浄夜」(個人的には1960年代に使われてた「清められた夜」という呼称の方が好きだ)も、ワーグナーの延長線上にある曲だとはいえ、これほど表現の振幅が大きいものは1970年代から演奏したことが多いカラヤンでも珍しいのではないだろうか。
下敷きになったデーメルの詩もよく思い浮かぶし、2番目のパートのむせ返るような香気、後半の寛容による安堵、繰り返し聴きたくなるものだ。
先の「英雄の生涯」(1985)と比べても、このCDの欠陥は音質で、強音とくにブラームスでひずみが目立つ。リハーサルなしとはいえ、BBCもこのコンビとホールは初めてではない。テープ保存に問題があったのではという評もある。
そうはいっても、知った曲、知った指揮者、オーケストラである。少しの想像力で補えば、聴き取る妨げにはならない。
ところで、これほどの演奏を、体に問題を抱えていたカラヤンが健康なときのように颯爽とした身振りで指揮したとは思えない。おそらく、そんなに大きく体を動かさなかったのではないだろうか。こんなすごい演奏であってみれば、ビデオが残っていれば見てみたいと思うのである。