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メドレー日記 Ⅱ

by 笠羽晴夫 映画、音楽、美術、本などの個人メドレーです

絵本読み聞かせ(2024年10月)

2024-10-31 11:24:38 | 本と雑誌
絵本読み聞かせ 2024年10月
ハロウィーン行事とかさなったため、クリスマスと同様3組一緒に絵本、そのあと行列してお菓子をもらい外に出かける、という形になった。
 
もこもこもこ(谷川俊太郎 作 元永定正)
にんじん(せな けいこ)
ばけばけばけばけ ばけたくん(岩田 明子)
 
毎年この季節によくやってきたもの、30数人の並び方が壁を背中に一列だったので、頁ごとに横に動かして皆に見えるようにしながらやったが、さてどうだったか。
 
外にでかけるところでお菓子を持って立ち、「トゥリック オア トゥリート」などたどたどしく言う子に一人ずつ「ハッピー ハロウィーン」と言ってキャンディーをあげた。
はじめての経験
 
「にんじん」は前から予定していたのだが、週明けに偶然せなけいこさんの訃報(92歳)、いくつも使わせていただいた、ご冥福を祈る。

 

トルストイ「イワン・イリイチの死/クロイツェル・ソナタ」

2024-10-15 16:01:21 | 本と雑誌
レフ・トルストイ: イワン・イリイチの死/クロイツェル・ソナタ
            望月哲男 訳  光文社古典新訳文庫
このところプーシキンから始めて、ドストエフスキーとチェーホフのいくつかをのぞき親しんでいなかったロシア文学を続けて読んでいる。今回はトルストイ(1828-1910)が1886年と1889年に書いた上記二作、時期的には「戦争と平和」、「アンナ・カレーニナ」のしばらく後である。
 
私の若いころからどうもトルストイはその博愛主義、禁欲主義が表に出ていて(とにかくそういう印象だった)敬遠していた。それでも「戦争と平和」は読んでおかなくてはとかなり歳をとってから読んだが、あの映画化などされている部分はストーリーの一部で大部分は露仏戦争の叙事的な記述で読み進むのもしんどく、評価も難しかった。「アンナ・カレーニナ」は映画で見て何か類型的「無理な男女愛」の印象で、原作を読むに至ってない。
 
さて今回の二つの中編、「クロイツェル・ソナタ」というタイトルは何故?と以前から疑問に思っていたことがきっかけである。
 
まずはイワン・イリイチ、これは同年代の法曹界の仲間が集まり話をしているとき、彼らの同僚である判事イワン・イリイチの訃報が入る。家族への弔問、人事への影響などの話の後、作者はイワン・イリイチ生涯の物語を始める。
 
45年の生涯、まずまずの家系に生まれ、法律家としてまずまずの昇進、結婚生活も必ずしもすべて満足ではなかったが大した破綻もなかった。その彼が体調をくずし医者の診断はすぐに明快にはならなかったがどうもあまり望みがなさそうになってくる。
 
そうなってからの、死に対する観察と思い、これまでの人生つまり仕事、家庭はどうだったかがぐるぐると何度も繰り返し駆け巡る。鬱といえばそうだがこうなってみると無理ない頭のなかの動きなのかもしれない、これを作者は詳細にえがいていく。
 
私が読んてきた範囲でいうと、この国の文学でそれまでこんなに作者が登場人物の内面を外から詳細にえがくということはなかったように考える。それは読む側からすると、作り物に見えてしまうところがあって、こちらに対して相反する効果を来たす。読み終わってみると、そうだろうなとは思うが、衝撃とまではいかなかった。
 
さてクロイツエル・ソナタ、トルストイは禁欲主義をとなえながら、自らの強い性欲になやみ、結婚生活では13人の子供をもうけている。
 
この小説では作者と思われる一人称の語りで、長距離列車のなかで出会った一人の男が語り始める。この男が世に知れた話の主人公、かなり地位のある地主貴族だが、嫉妬がもとで妻を刺し殺した本人だという。どうしてこういうところに出てきて話ができるのか、不思議なところだが、ともかくこれがすべてである。
 
この男、まず男の強い性欲と結婚制度の不適合について、延々とかたる。性欲を結婚家庭にとじこめ、特につぎつぎと子供が生まれると、夫婦ともどうなのかということである。このひと、夫婦でいろいろあった挙句、だいぶ平静になったと思ったら少しピアノが弾ける妻があるヴァイオリン弾きと知り合い、パーティで演奏するという計画が持ち上がる。これを知った男(夫)は妄想ともいうべき嫉妬を宿し、それも演奏が予定され二人が練習に入った曲のなかにクロイツェル・ソナタ(ベートーヴェン)が入っていることから、その始まりのところにある切迫的なパッセ―ジを二人の仲を示すもの、強い影響を与えるものと解釈し、音合わせの現場に乗り込んで妻を刺し殺してしまう。ヴァイオリン弾きは逃げおおせた。その後どういう審理で男がこの汽車で旅ができるようになったのかはわからない。
 
さて作者の主張は一応わかるが、これが一般の人の実生活に反映されるかどうか、発表時随分議論が巻き起こったようである。
 
ところでこのクロイツエル・ソナタというタイトル、私は気に入らない。切迫感、性愛を刺激するというのは一方的な受け取り方で、それはこのソナタに失礼だろう。優れたヴァイオリニストの演奏ではもっと柔らかく広がった迫力が感じられるのだが。たとえばダヴィッド・オイストラフ。


ヘンリー・ジェイムズ「ねじの回転」

2024-09-29 14:13:59 | 本と雑誌
ヘンリー・ジェイムズ : ねじの回転 (The Turn Of The Screw)
                小川高義 訳  新潮文庫
 
この作品については若いころその映画化「回転」が話題になり、TVで見たかどうかおぼつかないないが、幽霊、ホラーという感じで評判になっていたと思う。今調べてみたら主役の教師はデボラ・カー。
 
さて、先般やはりジエイムズ作の「デイジー・ミラー」で語りのうまさを知り、それではということになった。
話はある集まりでダグラスという男が子供の時に世話になった10歳年上の女性家庭教師が書いた手記の存在を話し、それが届いたら知らせるというところから始まる。
 
それからはその女性の視点、語りで、彼女が裕福な男から田舎に住んでいる甥と姪を見ることを頼まれる。赴任してから不思議なことがおこり、どうも以前この屋敷にいた男(使用人?)と女(前任家庭教師)の幽霊が出る、教師には見える、ということで、二人の子供たちも純真なようで手ごわく、次第に変なかたち、どういう形かわからないが破局を連想させる。
 
ここにもう一人か家政婦が登場人物としているが、教師とのやりとりが物語の進行に、読み手にとって、いろんな憶測を与える結果になっている。
 
教師の視点からの語りだから幽霊はあくまで彼女に見えている、見えていると思ってい、そのどちらかと言えなくもない。そうなると読者にとって彼女はそんな人なのということにもなるし、本当にいたと作者がしたいのならそれはホラー小説にもなる。このあたりは読み手に任せられているようで。
 
私は視点とこの小説の構造からして女性教師の頭の中の話、彼女のこういう話にしたいという意図だと考える。そういう最後までの書き方のうまさはさすがで飽きさせない。
 
訳は「デイジー・ミラー」同様、無理ない流れで進んでいく。
訳者が解説でscrewにはいろんな意味があり辞書で見てみることを薦めているので引いてみると、ひねり、ねじりから、値切り屋、きずもの、強制からなんと学生をいじめる教師、難問、まであり、ジェイムズはそれもあってこのタイトルにしたのだろう。


絵本読み聞かせ(2024年9月)

2024-09-26 14:59:19 | 本と雑誌
絵本読み聞かせ(2024年9月)

年少
ぶーぶーぶー(こかぜさち文 わきさかかつじ絵)
おててがでたよ(林 明子)
くだもの(平山和子)
年中
かくしたのだあれ(五味太郎)
でんしゃにのって(とよたかずひこ)
くだもの
年長
でんしゃにのって
キャベツくん(長 新太)
くだもの

年少組、今回は反応がちょっとおとなしめだったか。「ぶーぶーぶー」は自動車の色のちがい、他によくやる「ぶーぶーじどうしゃ」は種類、形のちがいで、こっちの方が反応があるようである。今の時代にもう車のかたちをあわせてくれるといいが。
「おててがでたよ」、「かくしたのだあれ」は今回すこし注意がむかなかったようだ。どうしてかはわからない。
「でんしゃにのって」は動物によって変える声色、話し方の工夫が楽しいともいえる。今回はまずまず。
「キャベツくん」は子どもたちにとってほんとうに「ブキャー」なようで、長 新太おそるべし。
「くだもの」はどの組でももりあがる。やはり関心は特別高い。年長組でもこれだけもりあがるとは。もっともこの位の年令でないとすべての種類は知らないようで。


西村賢太「苦役列車」

2024-09-14 16:02:31 | 本と雑誌
西村賢太: 苦役列車  新潮文庫
 
西村賢太(1967-2022)が2011年に「苦役列車」で芥川賞を受賞した時のニュース映像はよく覚えている。西村の風貌、経歴などかなり目立っていたからか、またそれらの報じ方からだっただろうか。
 
中学を出てから日雇いの労働を続け、いわゆる無頼な生活、それを私小説的に書いているということで、その後読もうという気は起きなかった。それでも2022年に亡くなったというニュースには驚いた。その一周忌あたりにこの人の墓が能登の地震で被害を被った七尾市にあり、しかもそれは西村が全集完成など傾倒した藤澤清造の隣りにある、ということが新聞に書かれていて、まずは「苦役列車」は読んでみようと考えた。
 
狭くて住みにくそうなアパートの日常、日雇いの職はおそらく貨物船の港近くの倉庫での積み下ろし、そこに通うバスの中、知り合った同年代の一人、その中で高望み世間への恨みなど、ぶつぶつ出てくるその流れが説得力ある表現で、細かいところは今時かなり汚いというか他人にむけて書くのはと思ってしまうだろうなとおうものなのだが、それでも読んでいけるのは、と思い気がついてみると、この作者、文章がうまいのである。
 
それが評価されたことの一つだろうし、受賞後続けてかなり読まれている要因のひとつでもあるのだろう。ただそれにしても結果として若年寄的なうまさになってないか。今時というかかなりさかのぼらないと使われない言葉や語り口がときどきあって、戦前の私小説作家を想定した擬古文的なものも出てくるが、これは作者がわざわざ意識したものかもしれない。
 
と思って最後の一文にきたら、なんと藤澤清造の作品をポケットにいれて、とあり、私小説作家をここで宣言したのかと驚いた。
 
そう気がつくと、最初に想像したよりはどろどろとしてない、もっと突っ込んで書いてくれてもと思ったのは、主人公を同じ主人公が三人称で書いていることに気がついたからである。このところ小説の人称などについてはいつも気にして読んでしまうのだが、私小説で一人称というか告白体はないんだろうか。
 
本冊にはもう一つ「落ちぶれて袖に涙のふりかかる」という短編があり、これは文学賞とりたさにのたうち回る一時代前の私小説作家として私がイメージしていた世界が詳細に描かれている。