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メドレー日記 Ⅱ

by 笠羽晴夫 映画、音楽、美術、本などの個人メドレーです

絵本読み聞かせ(2024年12月 クリスマス会)

2024-12-26 16:27:36 | 本と雑誌
絵本読み聞かせ 2024年12月 クリスマス会

今回も例年のごとくサンタクロース登場の前座である。

さんかくサンタ(tupera tupera)
サンタさんのおとしもの(三浦太郎)
てぶくろ(エフゲニ―・ラチョフ うちだりさこ訳)
しろくまちゃんのほっとけーき(わかやまけん)
 これは時間があまったため、おまけ
 
案外クリスマスらしくやるのは難しい。まあ気持ちよく待っててもらうことだろうか。
サンタさんのおとしものは、絵は素晴らしいがもう少し大判があるとよい。それと語りの部分がもう少し滑らかなら。

ドストエフスキー「賭博者」

2024-12-12 16:51:49 | 本と雑誌
ドストエフスキー: 賭博者
  亀山郁夫 訳  光文社古典新訳文庫
ドストエフスキー (1821-1881) の主要作品はもうかなり前つまり20代に読みずっしりとしたものが残った。ただその後は何も読んでおらず、数年前だったか「カラマーゾフの兄弟」の映画だったか何回かのTVドラマだったかを見ただけである。
 
それがこの数年、ロシア文学を続けて読んでいるうちプーシキンあたりからギャンブルがよく出てきて、どうもロシアにおける賭博の根づき方は本質的なものではないか、と思うようになった。
 
この「賭博者」は1866年の作、他の作品に比べると短いがそれでも300頁はある。
ある将軍のところで家庭教師を務めているアレクセイが主人公、将軍の義理の娘に恋している。将軍の伯母が死にそうだといわれていてその遺産がどうなるかということと、その金と娘をめぐる何人かのいくつかの国籍の男女、かれらがドイツの架空の町の賭博場でギャンブル、そして男女間のあてつけ、それらが続いていく。
 
しばらくはアレクセイの語り(この小説は彼の一人称)の内容がよくわからないが、死にそうといわれていた伯母が突然やってきて、素人なのだが賭場で無謀な賭けを続け莫大な儲けになりだすところからようやくこの小説の世界に入っていけるようになった。
 
それにしても賭博というものが人間にとって本質的なものなのか、人によるのか、ドストエフスキーの他の作品に描かれる人間の欲、悪、政治、宗教、人間の内面の本質、苦悩などなど、に加えてというかそれらをつらぬきまた底に存在して、作者にとっては書かなければならないものだったのだろう。人間が生きていくということはこういうことと説得されそうになることもある。
 
読んでいてわかりにくいところはかなりあって、それが訳のせいなのか、もともと今の日本人にはわかりにくいものなのか、ちょっと苦労した。ただそれとは別にこの本の校正はレベルが低いと思う。読んでいて、日本語の文章でこれはないだろうというところがいくつかあった。


絵本読み聞かせ(2024年11月)

2024-11-28 14:43:14 | 本と雑誌
絵本読み聞かせ 2024年11月
 
年少
だるまさんと(かがくい ひろし)
いやだいやだ(せな けいこ)
でんしゃがきました(三浦太郎)
年中
だるまさんと
でんしゃがきました
ぐりとぐら(中川李枝子 作 大村百合子 絵)
年長
バスがきた(五味太郎)
ぐりとぐら
すてきな三にんぐみ(トミー・アンゲラー 作 今江祥智 訳)
 
「だるまさんと」はシリーズ三作の最後で作者としてはちょっとアドリブ気味だが、年少の子供たちにもフィットしているようだし、すでに見ている子は先だって反応したりする。そこまでとらえているこの本の威力に驚く。それは「いやだいやだ」も同様。
 
「でんしゃがきました」はちょっと盛りすぎで、こういうところで使うにはもう少しコンパクトにしてほしいところである。食べ物の絵のアピール度は高い。
 
「ぐりとぐら」、提供する大人の評価ほど子供たちは面白がらなくなってきているように見受けられる。それでもこういうところにこれをいれておくのは悪くない。
 
「バスがきた」は二回目、今回はかなり反応がいい、今の子たち五味太郎がわかってきたか?(変な感想だが)
「すてきな三にんぐみ」、今のうるさい教育界からすると問題ある箇所がいくつかある(私はこのくらいでもいいと考えている)が、子供たちはすんなりうけとっていてこの絵本好きである。絵と色がいいからもあるだろう。
 
ところで前回に書いたせな けいこに続き、今回の中川李枝子、先月「もこもこもこ」の谷川俊太郎が亡くなった。我が国絵本の世界、もうかなり長く続いていてそういう時期になったのかと感慨ふかい。

 

チェーホフ「カシタンカ・ねむい 他七篇」

2024-11-25 10:47:14 | 本と雑誌
チェーホフ: カシタンカ・ねむい 他七篇
       神西清 訳 岩波文庫
チェーホフの戯曲を最近続けて読んでいたが、小説を読もうか、有名なものは再読になるがと思ったが、各社の文庫でも入手がなかなかという状態になっている。上記は半分くらいは読んだものだがいいアンソロジーのようだし、訳は神西清だしで読んでみた。
 
「カシタンカ」は飼い犬から見た物語で、飼い主からはぐれてしまい、いろいろな動物たちの集団に入ってしまう。ここはどうもサーカスか演芸などをやる動物集団で、その主人(団長)や動物たちの中の仕切り屋とのやりとり、出し物の練習が続いて、かなりつらくなってくる。そして本番で、主人公の犬はそれまでの溜まったもののあげくというのか突拍子もない行動に出るが、これが読者にストンとはいるかどうか、というもの。
 
「ねむい」は対照的な話、十三歳の娘が主人の家で子守をやっている。歌をうたいながらあやしているのだが、なかなかつらいもので、先は見えてこない。もうねむくてねむくてというあげく、この娘がとったのは、あっといわせ見事である。
 
そのほかも、よのなかうまくいかないもんだ、子供にとってのなぞ疑問、時間の流れと悲しみ
などなど、作者についてなにか決めつける、結論は、といったことを拒否してしまう、そのことを納得するといった読後感になると言ったらいいだろうか。
チェーホフ(1860-1904)の生きた時期は明治維新から日露戦争、でも比較対照してもあまり意味はないだろう。
 
翻訳の神西清、チェーホフに関しては伝説的な人、この神西によるかなりの頁数のチェーホフ論がここについている。内容は高度で読み切れないが、この中でチェーホフ作品を評して非情(アパシー)という言葉を使っている。これはそうかなと思う。チェーホフの作品は、読む側の感情にうったえるというのとはちがうがしかしこれは真実かと思わせる。
 
さらにその仕事ぶりについて神西敦子(清の娘)が書いている。清に私淑していた池田健太郎も登場する。敦子はピアニストで、いつだったかNHKのTVで演奏を聴いた記憶がある。
 
文庫収録されたものについて通常の解説ばかりでなく、こういうものがついていて、後に残るのはいい。同じ岩波文庫のプーシキン「オネーギン」(池田健太郎訳)にも神西清ともう一人について貴重な文章が掲載されている。


シュトルム「みずうみ/三色すみれ/人形使いのポーレ」

2024-11-06 14:38:35 | 本と雑誌
シュトルム: みずうみ/三色すみれ/人形使いのポーレ
松永美穂 訳  光文社古典新訳文庫
 
ハンス・テーオドール・ウォルゼン・シュトルム(1817-1888) は北ドイツ出身の作家、名前くらいは知っていたが作品を読むのははじめてである。
この三つの中編、いずれも男女の出会いとなかなかうまくいかない、というかなぜためらったのか、というなりゆき、展開が丁寧な描写と落ち着いた進行で、気持ちのいい説得力のある結末となっている。
 
なぜかもうひといきが足りずしばらくの別離でもう一緒になれない二人が会い、どうにもならないが静かに思い出の地をたどる「みずうみ」、娘を残して妻を亡くし迎えた若い後妻と娘の葛藤のなりゆきを描いた「三色すみれ」、ドイツ職人の世界で子供の時に出会った少年と少女、時をへだてての「人形使いのポーレ」、いずれも中心となる話者に工夫が見られ、気持ちよく読んでいける。
 
ドイツにおいて青春が描かれた小説というと、シュトルムより後になるがヘルマン・ヘッセやトーマス・マンのいくつかしか知らないが、いずれも今回の三編よりもう少し社会あるいは世界への広がりの中でというものだったように思う。だからだろうか、このシュトルムの三編、なにかより個人の人生の真実を感じさせてくれる。
 
この三つ、結末の幸福感はずいぶん異なるけれど、いずれも人が生きていって「再生」する、ということを説得力をもって描いたといえる。
 
訳文は作品の調子によく合っていて読みやすい。