メドレー日記 Ⅱ

by 笠羽晴夫 映画、音楽、美術、本などの個人メドレーです

カプリッチョ(リヒャルト・シュトラウス)

2007-05-01 22:13:33 | 音楽一般
歌劇「カプリッチョ」(作曲:リヒャルト・シュトラウス)
指揮:ウルフ・シルマー、演出:ロバート・カーセン
ルネ・フレミング(伯爵令嬢マドレーヌ)、  ディートリッヒ・ヘンシェル(マドレーヌの兄・伯爵)、ジェラルド・フィンリー(詩人オリヴィエ)、ライナー・フロスト(作曲家フラマン)、フランツ・ハヴラタ(劇場支配人)、アンネ・ソフィー・フォン・オッター(女優)
パリ・オペラ座(2004年6月)
 
カプリッチョというオペラは、接する機会が少なく、映像でも1990年夏のザルツブルク音楽祭のものが翌年NHK-BSで放映されたのが初で、その他に記憶がない。こっちは、ホルスト・シュタイン指揮ウィーン・フィル、演出はヨハネス・シャーフ。
 
弦楽六重奏のかなり長い前奏は、室内楽として単独に演奏されることもあるくらい何時聴いても魅力的で、それから音楽は切れめなくよどみなく絶えることがないかのように続いていく。スコアの通りにやれば1幕12景約2時間半を休みなくだから、やるほうも聴くほうも大変で、そういうことも上演機会が少ないということと関係があるのかもしれない。
 
だからこのように録画映像で味わうのには非常に適していて、このR.シュトラウスが得意とする常動というか無窮動というか、つぎつぎと違和感なくしかも表現力たっぷりと流れていく音楽、そしてアリアでも無愛想な語りでもない言葉の流れ、そうなるとむしろ字幕つきで見るのに最も違和感のない作品だ。
 
話は、マドレーヌの愛情を勝ち取ろうと、詩人と作曲家が、言葉と音の優位について論争する、とそこへオペラが嫌いな兄の伯爵、と劇場支配人が加わり、特に後者は詩人と作曲家の仕事を総合する彼の才と職務の崇高さを延々と語る。ここのところはくどいのだが、ついている音楽はそれを破綻させない。
 
結局は議論で決着するのではなくこの議論を題材にオペラを作ろうということになり、明日までに作ることになる。そしてマドレーヌはその後どちらを取るのか、結局それは出来ないと思わせながら静かに幕は降りる。
 
そして見ているほうは、こういうオペラを作ろうというあたりから、その結果として出来たオペラを、我々は最初から、実は、見ていたのだということに気づく。これは、コメディというわけではないので、そのことを登場人物が観客に明かすことはない。例えば「こうもり」のように。
 
この脚本は作曲者と親交があった指揮者クレメンス・クラウスが書いたそうで、そうなれば言葉か音楽かという議論を二人が作品化し、途中まではにやりと笑いながら確信犯で観客をだましたのはさぞ楽しいことだったであろう。
 
この演出(ロバート・カーセン)で問題があるとすればこのところの扱いである。一度見たものはこの仕掛けを知っているのだが、それでもその二重構造を楽しみながらこの音楽を聴いている。それは、舞台装置でマドレーヌが一人のときに効果的に使われる大きな鏡、そう鏡と鏡が向き合う面白さは、作品自体に内包されているのだ。
 
それを、人物の登場の段階で、これが劇場の舞台での始まりを示唆したり、最後の場面でマドレーヌが歌うところをマドレーヌ本人他関係者が劇場のバルコニー席から見ているという仕掛けを見せている。
これは余計であろう。ザルツブルグ音楽祭の演出ではあえてそういうところは出していなかった。
 
最近はあまりオペラを見ていないので、ルネ・フレミングとオッター、そしてプロンプター役でちょっと出てくるロバート・ティアー以外はよく知らないが、フレミングは姿も、ちょっと気が弱そうな感じもこの役にぴたり、オッターは少し個性的過ぎるだろうか、劇場支配人のハヴラタはとってもうまい。この人の中ほどの長い歌と、フレミング(マドレーヌ)の最後の結論とためらいの長い歌が、ちょうど対応する二つの柱になっており、言葉と音の対応と、縦横の関係になっているといえる。
 
「カプリッチョ」が出来たのは1941年、初演はクレメンス・クラウスの指揮で1942年(ミュンヘン)というから、ああいう時代にこういうオペラは、といっても何かわかるわけではない。
このよどみない魅力的な音楽になにか悔恨と諦念が加わったような戦後の「メタモルフォーゼン」。
しかし、それでどうとも言えない、これは音楽の中だけのこと。

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