お寺さんぽ Ver.03

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倒れる道雪と「高橋紹運」 (岩屋城合戦・高橋紹運)6

2010年03月25日 | 歴史
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日も泣ける籠城戦「岩屋城合戦」と「高橋紹運(たかはし・じょううん)」についてです。

一時は九州全土を席捲する勢いであった大友家。
しかし、元亀元年(1570)の「今山合戦」では龍造寺勢に、天正六年(1578)の「耳川合戦」では島津勢にそれぞれ敗れ、孤立した紹運らはぎりぎりの戦いを強いられるのでした。


天正十二年(1584) [沖田畷合戦]
大友氏の混乱に乗じて、勢力を拡大させていた肥前「龍造寺隆信」
しかし、「沖田畷合戦」では天才的な戦術家「島津家久」の必殺「釣り野伏」によって、兵力で勝っていながらも敗北。
総大将である隆信自身が討ち取られるという、決定的な敗戦となってしまうのです。

この「龍造寺隆信」の混乱を好機とし、「立花道雪」、「高橋紹運」らは筑後奪回のため出陣していました。
しかし、龍造寺方の筑後・猫尾城を攻めていた七十歳を超える道雪は、この遠征中病に倒れてしまうのです。

天正十三年(1585)
高良山(こうらさん)の陣中で発病した「立花道雪」は一時持ち直したものの、北野への進軍に再び病が深まり、ここで没してしまうのでした。
享年七十二。

我が遺骸に甲冑を着せ、柳川に向けてこの地に埋めよ

必死に看病する紹運に、道雪は遺言としてそんなことを言ったそうです。
彼の棺を守って殿を務めたのは、紹運でした。
しかし、筑後・筑前の敵勢らは、この葬列を遮らなかったと伝えられています。

父というべき「立花道雪」の死後、大友氏の命運は紹運の肩にかかりました。
しかし、事態はより大友家にとって不利なものとなっていくのです…。


沖田畷にて龍造寺の軍勢を完全に破った島津勢に、もう対抗できる勢力はありませんでした。
唯一残った対抗馬たる大友家も「耳川合戦」の敗北後は混乱を続けており、緒豪族らはこぞって島津へと従う有様。
怒涛の勢いで侵攻を続けるそちらに、九州統一はほぼ時間の問題という気運だったのです。

なお、中央では…
天正十年(1582)が本能寺の変。
「織田信長」の死後に台頭した「豊臣(羽柴)秀吉」は、主君の仇である「明智光秀」、続いてライバル「柴田勝家」を賤ヶ岳に討って、天下人たる地位を固めてました。
難敵「徳川家康」を天正十四年(1586)に帰順させると、ついに四国・九州討伐へ乗り出したのです。
…ちなみに、「大友宗麟※写真」がこの危機的状況に上洛し、秀吉に助けをもとめたのはその頃です。
大友家は、秀吉の直参となったのでした。

⇒ つづく。
 次回は「迫る島津勢と「高橋紹運」」(7/10)


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※こうしたゲームで、九州メインにしても面白いのでは。
 嘘か本当か、宗麟の奥様はおっかない人だと聞きますので。