お寺さんぽ Ver.03

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嫡男「立花宗茂」と気に入る道雪 (岩屋城合戦・高橋紹運)4

2010年03月18日 | 歴史
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日も泣ける籠城戦「岩屋城合戦」と「高橋紹運(たかはし・じょううん)」についてです。

”雷神”という異名をもつ「立花道雪(戸次鑑連)※写真」と共に、筑前を守っていた「高橋紹運」
岩屋城で反逆していた「高橋鑑種」ですが、毛利氏の撤退によって降伏。
空いた宝満・岩屋の両城は、紹運に与えられ、また大蔵(おおくら)氏からの名家・高橋氏の名跡を継いで「高橋鎮種(たかはし・しげたね)」となったのでした。
(※ちなみに、号の「紹運(しょううん)」を名乗るのは、天正七年(1579)です)
さらに、嫡男「立花宗茂(高橋統虎)」も誕生するなど、紹運自身は順風満帆だったんですが…。


元亀元年(1570) [今山合戦]
肥前に侵攻した大友勢約三万。
寡兵であった肥前の熊「龍造寺隆信」に対して大軍を擁する大友勢は圧倒的でしたが、なんとこれに敗北。
総大将であった宗麟の弟「大友親貞」が討死するという、手痛い敗戦を喫するのです。

天正六年(1578) [耳川合戦]
さらに、日向へと侵攻した「耳川合戦」
こちらでも、島津得意の「釣り野伏(つりのぶせ)」戦法によって、「島津義久」の率いる軍勢に大敗。
出陣していた多くの家臣が討死することとなるのです。
ちなみに、紹運の兄「吉弘鎮信」もここで戦死しています。

重なる敗戦で、大友家には以前のような勢いはすっかりなくなっていました。
筑後の「筑紫広門(つくし・ひろかど)」、筑前の「秋月種実(あきつき・たねざね)」らは、さっそく付近の諸将らと共に大友氏に反抗を開始しています。
有能な将を失い、敗戦処理に追われる宗麟らにはそれを止める余裕なく、ほぼ孤立したような紹運らはぎりぎりの戦いをすることとなるのでした。
肥前「龍造寺隆信」と結んだ筑紫・秋月ら軍勢は活発に活動。
天正八年(1580)あたりでは、宝満・岩屋城へ迫るほどの勢いがありました。
しかし、翌天正九年(1581)の戦いには「立花道雪」・「高橋紹運」らの軍勢に敗れ、また岩屋城へと迫った天正十一年(1583)でも、紹運の奇策によって敗れるのです。


そなたの嫡男統虎をわしにくれぬか

紹運にとって父親というべき「立花道雪」からそんな事を言われたのは、天正九年(1581)のことでした。
(※まぁ、実際にはそれ以前からちょくちょく言われていた様子ですが)
道雪には、実際に城持ち(※正式な手順で城督として登録されている)となっていた娘「立花千代」が一人いるだけで、男子に恵まれなかったのです。
また、もともとの戸次家を継いでいた一人目の養子「戸次鎮連」は、立花家の後継者としては力不足と見られていたみたい。

その点、優れた資質の持ち主として知られていた紹運の嫡男「立花宗茂(高橋統虎)」は、おそらく身近でも見たことのある道雪の眼鏡にかなったのでしょう。
嫡男で才もあった彼を他家へ出すことはなかなか承知し難いことでしたが、結局は道雪の熱意に折れて婿養子として差し出したのです。
(※ちなみに、前述しておりますが紹運には宗茂のほか「立花直次(高橋統増)」という男子がいます)

⇒ つづく。
 次回は「「高橋紹運」と養子の件」(5/10)

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※こんなん発見しました。
 もうなんでもアリですね(笑)