千利休の子孫である千宗屋氏によると、それまでの「道具あってのお茶から、お茶あっての道具に変わった」という。楽茶碗は身体と同化して自らの存在が消え去るようなものであるとする。実際に利休さんが作った狭い空間の茶室待庵は、無駄なものは一切なく、あるのは籠を利用した花入れと抹茶をたてるお釜だけで、人同士の交流を目指している空間となっていたようです。楽茶碗や抹茶は飽くまでもコミュニケーションを円滑に行うためのツールであり、昔の戦国のように茶碗は権力の象徴として持て囃され、服従させるための道具だったのです。
要は、「政治あっての国民じゃなくて、国民があっての政治」と言うように利休さんが説いているように私には聞こえた。
千宗屋さんの楽茶碗への拘りに感銘を受けた次第です。
♪リラックスタイムに:nao (一輪挿しの花&お茶&ロウソクの生活もイイよね。)