すぐに看護師さんがきて、その後ろから母、妹、娘がバタバタとかけつけました。
「たった今、呼吸が止まっちゃったの!」というと、母が「お父さん、お父さん、お父さん!」と3回大声で呼びました。
すると父は息を吹き返し、数回呼吸して再び止まりました。医師が来て脈をとりながら「8時17分です」と言いました。
「間に合ってよかった。わたしが声をかけたから息を吹き返したのね」
母が泣きながら言いました。
「お父さんはお母さんを待っていたのよ……」
「そうね。神様、有り難う」
父の顔は穏やかで平安に満ちていました。悲しいのですが、感動で心が震えました。父は信仰を告白して洗礼を受けることはなかったのですが、キリストを信じて天国に行ったのだと確信しました。
3週間の入院生活でしたが、その間少ししか苦しまなかったことが慰めとなりました。末期癌の壮絶な苦しみを恐れていたわたしに神様が「何にも心配することはないのだよ」と言って下さった気がします。
聖書の言葉を聞きながら静かに息をひきとった父に神様は栄光を現して下さいました。
葬儀は仏式で行われましたが、病院でお別れ会をして下さいました。「いつくしみふかき」の讃美歌で病院の先生や看護師さんたちに見送られてホスピスを出ました。
父の棺に入れる物を探していて驚いたことがありました。
父の部屋に三浦綾子さんの本「永遠の言葉」から抜粋してワープロで打った物の綴りが3部置いてあったのです。渡されることはありませんでしたが、3部コピーしてあるということは母と妹とわたしの分なのでしょう。それはB5で7ページもありました。父がこの本からどれほど深く影響を受けていたかがわかりました。
『寝たきりの、何も自分の言葉でものの言えない人も、思っていることの心の中はすばらしいですね。(一方)口に出して言えるわたしたちが「ありがとう」という言葉を出さずに生きております。わたしたちはこの口で何かを言う義務があると思います。』
との一文を読んで、父が召される数か月前からよく「ありがとう」と言っていたことを思い出しました。
短気な父があまり怒らなくなり、末期癌だと知っても平安でいられたのは、この本の言葉を通して父の心に聖書の真理が流れていたのだと思います。
父の遺骨は秋田のお墓に納められましたが、分骨して土浦めぐみ教会の納骨堂に納めることができました。それはわたしが望んだこと以上のことでした。
人の命ははかないものです。どんなに長生きしても、死を迎えるときは、あっという間の人生だったという人が多いと聞きます。83歳で召された父も母にそう言ったそうです。
人は死に向かってまっしぐらに進んでいるような気がします。もし死がすべての終わりならば、こんなに空しいことはないでしょう。でも、神様はキリストを信じるものには新しい体を与え、永遠の命を下さると約束して下さっているのです。
そのことを愛する両親に伝えることが何よりも大切なことなのに、これまでなかなかできませんでした。
父が末期癌になり、時間が限られたおかげで勇気をもって伝えることができました。癌にならなくても、いつかは召されるでしょう。今思い返すと、父が末期癌と宣告されたことが大きな神様の恵みだったのです。
地上で父ともう会えないことが寂しいのですが、心のフィルムに焼き付けた父との美しい記憶が宝物として輝いています。
おわり