ときどき、聖書には誤解を招くような文章が書かれています。4日の礼拝では、初めて聖書を読んだ人がつまずいてしまいそうな箇所が取り上げられました。
「教会では妻たちは黙っていなさい。彼らは語ることを許されていません。(1コリント14:64)」
これはパウロがコリントの教会へ宛てて書いた手紙です。
いま、教会で「婦人は教会でしゃべってはいけません」などと言ったら、大変なことになります。女性蔑視だと言って猛烈に怒る人もいるでしょう。実際、黙っていることなどできませんね。
確かにこの一文だけ読むと、パウロは女性差別をしていたのでは?と思ってしまいます。
でも、別の箇所では 「しかし、女が祈りや預言をするとき・・・」と書かれています。女性が公の場で祈ったり、預言をすることを認めている証拠です。
当時のコリント教会が乱れていて、礼拝でメッセージが語られているとき反論してそれで論争になったり、異議を申し立てたりする婦人がいたようです。そういう人に対して、「黙っていなさい。疑問があったら家に帰って夫に尋ねなさい」とパウロが言ったのです。
救世軍の山室軍平は
「パウロのこの言葉はキリスト教本来の精神とおおいにかけ離れている。当時の混乱したコリント教会の婦人に対して言った言葉である」と言ったそうです。当時、男尊女卑の社会にあって、山室軍平がこのように捉えたことは驚くべきことです。
キリスト教の精神は 「ユダヤ人もギリシヤ人もなく、奴隷も自由人もなく、男子も女子もありません。なぜなら、あなたがたはみな、キリスト・イエスにあって、一つだからです。(ガラテヤ 3:28)」の一語につきます。
他の聖書の箇所には婦人たちが活躍したことが書かれています。
ペンテコステには婦人たちの上にも聖霊が下ったのです。
女性であっても臆することなく語ってください。
神様が、わたしたちひとりひとりを大切に思っていること、愛していることを伝えるのです。
語る者は聞く者でなければなりません。謙虚さを持ち、服従する者でなければなりません。そして黙する者でなければなりせん。こんな自分を用いて下さいと祈るのです。
わたしはこのメッセージを聞いて、神様からの迫りを受けました。
メッセージが自分に向けられていると感じてなりませんでした。
というのは、来月友人(チャキさん)の教会に招かれてお証しさせていただくことになっているからです。
チャキさんがわたしの書いた詩(神さまのカリス)に曲をつけてくださったことがきっかけで、お招きいただいたのです。
自分の教会では、何年も前に礼拝と婦人集会で証しをさせていただいたことがありますが、他教会ではありませんでした。お引受けした後、このような者が他教会で、しかも礼拝の中で証しさせていただいていいのだろうか。そのような資格があるのだろうか・・・と恐れを抱いていたのです。
神様がそんなわたしに「恐れないで語りなさい」と背中を押してくださったように感じました。
(前回の記事で)ヒックンが打ち上げられる花火のすべてが自分に向かって来ていると思ったように、この言葉のひとことひとことがわたしに向けて語られていると思わずにはいられませんでした。
黙して、神様の言葉を聞いて、謙虚になって語れるように備えさせてくださいとお祈りします。