イエスさまが70人の弟子たちを遣わすとき、
「さあ、行きなさい。いいですか。わたしがあなたがたを遣わすのは、狼の中に子羊を送り出すようなものです。(ルカ10:3)」と言われました。
ふつう、狼の中に子羊を送るような危険なことはしませんね。でも、イエスさまはあえて子羊のように弱い存在である弟子を恐ろしいところに送り出し、「さあ行きなさい」と言われました。
その理由は、苦しみにあうことがまことのしあわせを見いだす道だからだそうです。
「荒野の祝福」(ハ・ヨンジョ著 、日本ツラノ書院発行)に
「クリスチャンにとって最大の悲劇は、苦しみにあうことではなく、苦しみの中でキリストを見いだすことができないことである」と書かれています。
つまり、クリスチャンの最大の喜びは、苦しみの中でキリストを見いだせたときです。キリストを見いだせたとき、平安が与えられます。クリスチャンにとって平安を得られることは最大の特権です。
申命記8章には、神さまがイスラエルの民を40年間荒野で試みに合わせたのは、民が神さまの命令を守るかどうか知るため、心の中に何を土台として据えているのか民自身が知るためであったと書かれています。
神さまは、なぜ愛する者を苦しい目にあわせるのでしょうか?
申命記8:12-14には次のように書かれています。
あなたが食べて満ち足り、りっぱな家を建てて住み、あなたの牛や羊の群がふえ、金銀が増し、あなたの所有物がみな増し加わり、あなたの心が高ぶり、あなたの神、主を忘れる、そういうことがないように――主は、あなたをエジプトの地、奴隷の家から連れ出し……(申命記8:12-14)
わたしはこの前半部分を現代に置き換えてみました。
食べて満ち足り、りっぱな家を建てて住み、健康が与えられ、良き伴侶にめぐまれ、高級車に乗り、社会的に高い地位につき、名声が高められ、貯蓄が増し、子供たちは有名大学に入り、……となるでしょうか。
それは、俗にいう幸せですね。でも、それが本当の幸せでしょうか? 聖書で言う幸せとは少し違うようです。
申命記8:16に、 しあわせと仮名で書かれていますが、それは俗にいう“幸せ”と違うことを意味しているようです。
つづく
*「生かされて…土筆文香」HPにエッセイ『劣等感からの解放』を更新しました。