今日は教会学校の礼拝で、メッセージをさせていただきました。ザアカイの話をパネルシアターにしました。家庭集会の学びの内容とザアカイのメッセージと共通するところがありました。
ザアカイの話はまたの機会にして、昨日の続きを書きます。
すべてが順調に運び、お金や物が豊かに与えられると心が高ぶり、神さまを求めなくなるということは、確かにあると思います。そんなときは、本当の幸せを失っているときです。
順調なときは長く続かず、次々と試練がやってくることがあります。でも、試練が訪れたとき、気落ちする必要は全くないのです。
神さまは人に苦しみを与えることによって、人が大切な物を見いだすことができるようにしてくださるのだそうです。
むしろ順調なときは警戒して、試練がやってきたら、喜んだらいいのですね。
ルカ10:5には、 「どんな家にはいっても、まず、『この家に平安があるように。』と言いなさい。」と書かれています。平安とはシャロームのことで、ユダヤ人があいさつに使う言葉です。弟子達がシャロームをまず願うのは、それが人間にとっていちばん大切なことだからです。
どんなに物質的に恵まれても、心に平安がなければ幸せではありません。神さまと平和をもっていると、どんな試練がやってきてもどんな状況におかれても平安でいられます。
とはいえ、クリスチャンも人間ですから、突然の悲しみに襲われたとき、誰もがすぐに平安が与えられるわけではないと思います。わたしの場合を考えてみると、乳癌のリンパ転移がわかったときや父の余命がわずかだと知らされたときなど動揺し、平安を失いました。
でも平安を失ったままではなかったのです。しばらく嘆き悲しんだ後、悲しみを受け入れることができて、再び平安が与えられたのでした。
人は、罪を犯して神の怒りをこうむっています。でも、キリストの十字架によって怒りが取り除かれました。 「キリストによって神との平和を持っている(ローマ5:1)」という事実に目を向けるとき、どんな状態のときにも平安をいただくことができるのです。
もしそこに平安の子がいたら、あなたがたの祈った平安は、その人の上にとどまります。だが、もしいないなら、その平安はあなたがたに返って来ます。(ルカ10:6)
神さまは平安をすべての人に差し出しておられますが、それは受け取る人次第だということです。神さまは人間に自由意志を与えておられるので、無理に押しつけたりはなさいません。
わたしは、素直に手を差し出して、神さまからの平安を受けます。
90分の家庭集会の学びは内容が濃く、すべて書くことができませんでしたが、書くことによってわたし自身がめぐまれました。感謝。
おわり