静岡ホーリネス教会グレースチャペルBlog

(日本ホーリネス教団静岡教会)

主日礼拝説教要約

2014年12月14日 | 説教要約
「わたしたちと共にいて下さる神」 マタイによる福音書1章18~25節

「『見よ、おとめがみごもって男の子を産むであろう。その名はインマヌエルと呼ばれるであろう』。これは、『神われらと共にいます』という意味である。」(23)

Ⅰ 夫婦の絆を強める神
 
 ヨセフは、夢の中で主の使いに語られ、マリアが宿した子は、救い主で聖霊によることを受聞き、信仰を持って受け止めます。人間的にみたら大きな試練で、夫婦の絆が壊されるように思える出来事も、神には深い知恵があり、この素晴らしい出来事を通して、さらに夫婦の絆を強めるのです。

Ⅱ 共にいます神
 マタイによる福音書は、インマヌエルの神で始まります。そして終わりは、「見よ、わたしは世の終わりまで、あなたがたと共にいるのである」です。主イエスは、私たちと共にいたくて仕方がないのです。こんな小さな罪深い私たちとです。なんとありがたいことでしょうか。
こんなに思われているなんて。

 この神と共に歩ませていただきましょう。

2014.12.14 説教者 杉本守
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天のマナ

2014年12月14日 | 天のマナ
 「神の救いの偉大さ」
   
「なぜ2000年前のキリストが私たちの救い主で、キリストの十字架の出来事が私たちの救いになるのでしょうか」の問いを受けることがあるでしょう。ひとことで言いますならば、それは、「神のわざ」であります。具体的には、神が神のひとり子を私たちの救い主として、この世界に遣わされたからであります。そして、その救いのわざは、救い主イエスが罪びとである私たちの罪を負って、十字架の上で私たちの身代わりに死なれたということでありました。これを理解し信じ体験するには、聖霊なる神の働きが欠かせません。

 神は時間の中に生きておられるのではなく、永遠の中に生きておられます。人間は時間に縛られていますが、神にあっては、時間的な前後関係も、時間的な隔たりというものはないのです。二千年という時間は問題ではありません。二千年前のキリストの十字架の贖いを、今の私たちに適応することなど、何でもないのです。
「主にあっては、一日は千年のようであり、千年は一日のようである。」(Ⅰペテロ3:8)

2014/12/14
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