「み言葉に親しみ蓄える」
先日の葬儀にて、故人が「枝」に投稿した文章を読ませていただきました。彼は毎年必ず自分の信仰を「枝」にて表明していました。
彼は20歳の時、「ふぅーポン信者」(一週間聖書を開かず、日曜日の朝に聖書の上に溜まったホコリを吹いて軽くたたき落とすキリスト者)であってはいけないと思い、その時から毎年聖書を1回通読(創世記~黙示録まで読む)することを決心し、それ以来、45年間45回通読されてきました。今年も聖書の半分を過ぎた時に、主は彼を御傍に召されました。彼の信仰生涯は、御言葉に親しみ蓄えたものでした。
私たちの心の器の容量(キャパシティ―)は、決まっているのではないでしょうか。朝起きて、心の中に何を入れるか、世の物を多く入れたら、み言葉の入る余地はありません。逆にみ言葉を読んで入れると心が満たされ平安をもち、不思議に世のものには興味が薄れてくるのです。世の中の依存からの脱却は、み言葉、賛美、祈りによる主イエスとの愛の交わりであります。「み言葉に従って、わたしを生き返らせてください。」(詩篇119:25)
2014・8・31
先日の葬儀にて、故人が「枝」に投稿した文章を読ませていただきました。彼は毎年必ず自分の信仰を「枝」にて表明していました。
彼は20歳の時、「ふぅーポン信者」(一週間聖書を開かず、日曜日の朝に聖書の上に溜まったホコリを吹いて軽くたたき落とすキリスト者)であってはいけないと思い、その時から毎年聖書を1回通読(創世記~黙示録まで読む)することを決心し、それ以来、45年間45回通読されてきました。今年も聖書の半分を過ぎた時に、主は彼を御傍に召されました。彼の信仰生涯は、御言葉に親しみ蓄えたものでした。
私たちの心の器の容量(キャパシティ―)は、決まっているのではないでしょうか。朝起きて、心の中に何を入れるか、世の物を多く入れたら、み言葉の入る余地はありません。逆にみ言葉を読んで入れると心が満たされ平安をもち、不思議に世のものには興味が薄れてくるのです。世の中の依存からの脱却は、み言葉、賛美、祈りによる主イエスとの愛の交わりであります。「み言葉に従って、わたしを生き返らせてください。」(詩篇119:25)
2014・8・31