静岡ホーリネス教会グレースチャペルBlog

(日本ホーリネス教団静岡教会)

主日礼拝説教要約

2014年04月13日 | 説教要約

「神無しの人生から、神有りの人生へ」 詩篇90篇1~17節

 「主よ、あなたは世々われらのすみかでいらせられる。山がまだ生れず、あなたがまだ地と世界とを造られなかったとき、とこしえからとこしえまで、あなたは神でいらせられる。」(1~2節)  受難週を迎え、本日はしゅろの主日であります。主イエスが、十字架にかかるために、子ロバに乗ってエルサレムに入城しました。主の受苦をおぼえながら、御言葉に聴き入りましょう。 

 この詩篇は、モーセの作であり、神無しの人生のはかなさと神有りの人生の満たしを詩っています。

 Ⅰ 神とは

 神とは、永遠から永遠におられる方で、神によって世界が造られる前から、神でおられる方であります(2)。そしてこの神は地と世界を造られ、最後に人間を造られ生かしており、人がその使命を終えたならば、天に召す方であり、神の手の中に人はあるのであります(3)。

 Ⅱ 人とは

  人は有限な者であり、ひと夜の夢のごとく流れていき、朝には栄えたと思っても夕には枯れる弱い存在であります(5~6)。人の年は、70~80年で、その歩みも骨折りと悩みであります(10)。さらに人は、罪深く、神の光の前では滅び去る存在でしかありません(7~8)

 Ⅲ 救いとは

 そういう人間が、自分の日を数えること(自分のはかなさと罪深さを認め)によって、知恵の心を得るのです。「知恵の心」とは、「主を恐れるとは知恵のはじめ」(詩篇111:10)とあるように、主を主と認め畏敬し、主にに立ち帰ることです。知的に主を知るだけではなく、主と霊的につながることであります。罪あ人の側からは神につながることはできません。神の側から手を差し伸べていただく、つまり十字架の贖いがあって、人は神に立ち帰ることができるのです。

 神無しの人生には希望がありませんが、神有りの人生は、神のあわれみといつくしみとがあふれていて、豊かな希望があるのです。

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天のマナ

2014年04月13日 | 天のマナ

「受難週の黙想」  「主なる神の前に沈黙せよ」(ゼパニヤ書1:7)

 今週は、受難週です。イエス・キリストが十字架へと向かわれた日々です。今日は、棕櫚の主日と言われ、主イエスがエルサレムにロバの子に乗って入場した日です。月曜日は宮清めの日、火曜日は神殿で教えをなされ、水曜日はベタニヤで香油を受け、木曜日は最後の晩餐で弟子たちの足を洗い聖餐式を制定され、その夜中ゲッセマネの園で祈られました。そして金曜日に十字架に掛かられたのです。この受難(十字架)が私たちを救うためであることを思う時に、いつも以上に主の前に静まり、み言葉を読み黙想をもって主と交わることが大切であります。特に、エルサレム入場からの福音書を読み、主イエスの思いやゲッセマネの祈り、十字架の苦しみを黙想することをしたいのです。私たちは御言葉を読むとすぐに祈りを始め、自分の気持ちや願いを話し始めますが、この受難週では、祈りの前に黙想の時を持つことをお勧め致します。主イエスは、私たちに静かに語り霊的な深い交わりを望んでいるに違いないからです。

2014/4/13

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講壇の

2014年04月13日 | 生花
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