静岡ホーリネス教会グレースチャペルBlog

(日本ホーリネス教団静岡教会)

主日礼拝説教要約

2007年01月07日 | 説教要約
「救い主イエスの宣教の開始」(マルコによる福音書1章1~15節)

 神のひとり子として、この世に遣わされたイエス・キリストは、30歳になった時に、先駆者としてのバプテスマのヨハネの働きによって、時が満ちたことを知り
洗礼を受けることにより、救い主としての御業を始められたのです。私達の洗礼は、神から離れて歩んでいた罪を告白し、神に立ち帰り、神に従う生涯へと変えられたことを意味します。しかし、イエスは罪がない方でありますので、イエスの洗礼は、私達と同じ意味ではなく、天から声があったとあるように、永遠の王、受難の救い主としての働きのスタートでした。
 
 救い主イエスは、その生涯(教え、奇跡、いやし、十字架と復活)によって、何を私達に与え伝えたのでしょうか。それは、救い主イエスの宣教の第一声に表されています。「時が満ちた、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ」(1章15節)の内容でした。「神は世の人々を愛し、救い主を遣わすことによって、神の国である神の愛の支配が、私達の目の前に手の届く所に置かれている。イエスを救い主と信じる時にそれはあなたのものになる。あなたの心が神の愛と平安に満たされる」ということでした。
 
 目の前に救いがすでに置かれていることに私達は気付き、この救いを受ける者となりましょう。

2007年1月7日
説教者 杉本守牧師
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

天のマナ(2007/1/7)

2007年01月07日 | 天のマナ
「この人(救い主イエス)以外に救いはない」

 6日の夜の「ニッポン人が好きな100人の偉人・天才編」という番組で、相田みつを氏のことが、取り上げられていました。彼は、書家・詩人であり、自分の弱さや甘えを正直にさらけ出し、人間である自分をあるがままに表現した人です。「私は書という形式を借りて、人間の本来的なありよう、本来の生き方を語りかけているだけなのです」(「おかげさん」・・ダイヤモンド社より)という彼の言葉に表れているように、「いのち」の尊さを見つめた彼の詩を読むと共感する所が多いのです。

 いくつか詩を記させていただきますと、「つまずいたっていいじゃないか にんげんだもの」「毎日少しずつ それがなかなかできねんだあ」「あたまじゃわかっているんじゃが」「物がいっぱいありながら なにか不安でもの足らない もの足りない なぜ」「この自我 この自報 おれと一生つき合う相手」などです。「ありのままの自分を認めて、自分の命、存在、人生を大切にしていこう。人間だから」というメッセージは伝わってくるのです。

 聖書は、さらに大切なことを二つ語ります。一つは、「人間だから」の前に、「神の宝物として造られた人間だから」ということと、「神に愛されている人間だから」といことです。二つに、その弱い人間を、ありのままの人間を救ってくださる救い主がおられるということです。私達に与えられている救いを語り伝えましょう。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

暗唱聖句(2007/1/7)

2007年01月07日 | 暗唱聖句
「時は満ちた、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ」。
(マルコによる福音書1章15節)    
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

講壇の生花

2007年01月07日 | 生花

あなたがわたしの心にお与えになった喜びは、
穀物と、ぶどう酒の豊かな時の喜びに
まさるものでした。
わたしは安らかに伏し、また眠ります。
主よ、わたしを安らかにおらせてくださるのは、
ただあなただけです。
詩篇 第四篇7~8節



2007年1月7日 礼拝 (M.M)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする