レーヌスのさざめき

レーヌスとはライン河のラテン名。ドイツ文化とローマ史の好きな筆者が、マンガや歴史や読書などシュミ語りします。

男装in少女マンガ誌

2007-04-21 15:58:00 | マンガ
 少女マンガの「男装」モチーフ、少女誌の巻。

 田中雅子『赤い狼』
 知っている人いるだろうか、70年代初頭。たぶん「別冊マーガレット」、あるいは「デラックスマーガレット」に載っていたシリーズで、私も断片的にしか読んでいない。テキサスの田舎育ちのおてんば娘キャシーが、マスクして正義の味方「赤い狼」として戦う話だった。母はキャシーを女らしくさせたがっていた。

 忠津陽子『美人はいかが?』
 男装ともいえないけど、男所帯でガサツに育ってしまった女の子を女らしくさせようとする話だった・・・はず。私自身全部は読んでない(いま文庫で出てるけどね)。70年、「週刊マーガレット」。ストーリーマンガというものをよく解読できてなかったころからこの人の絵は好きだった。

 「男の子みたいな女の子」「女の子みたいな男の子」の設定はよくあった。(私は読んでないけど里中さんの『ミスターレディ』もその類。70年代。) 女らしさ男らしさは形ではない、心なんだ、という結論に終わることが多かったような記憶がある。もっと昔なら、「オテンバ」はもっと、矯正すべき欠点として扱われていたのかもしれない。

 『ベルばら』よりもあとの「週マ」での山本鈴美香『七つの黄金郷』は、エリザベス1世の時代のイングランドが舞台で、結婚するまで世間に性別を明かさないという海賊で侯爵の一族が出てくる。状況に応じて使い分けていた。(『ジェンダー表象論』がこれについて触れていないのも不思議だ) もっとも、山本鈴美香という作家の意識も案外古いところがあるので、性別不明という点でTONI『砂の下の夢』あたりと比べれば限界があるのではないかという気はする。
 
 80年代、ひかわきょうこ『荒野の天使ども』。西部劇のラブコメ。8つのミリアムはスカートのまま暴れていた。続編の17才バージョンでは、敵地にのりこむときにはジーンズ着用だけど、単に動きやすさの問題だろう、髪は長いままだし、けっこう胸あるし、男にはどうしても見えない。「オテンバ」はミリアムのミリアムたる所以であり、「治す」べきものだとは決して思われていない。

 現代ものの場合、なにをもって「男装」というのか難しい。碧ゆかこの「すばるさん」、黒田かすみ『Vice』のマリア・シューマッハなど、特に男を装うつもりではないだろう。
美人だけど背が高くて胸ないので、しばしば男と思われるが、たぶん動きやすいからスーツやジーンズでいるだけだと思われる。

 少年マンガだけど『うる星やつら』。浜茶屋を継ぐために、父が勝手に「男らしく」育ててしまった藤波竜之介(明らかにオスカルのパロ)。本人はそんな親父に反抗しているが、明らかにどの男キャラよりも男らしい。顔は可愛く、胸はけっこうあるけどブラジャーなど持っていないのでサラシで押えている。「女らしく」なりたいという欲求は強いがその試みは挫折するのが常だった。
 
  「男のような」、「オテンバ」といった性質を、マイナスと見る、矯正すべきものと見做す前提は、年代が下ると共に崩れていることは確かであろう。そもそも、「女らしさ」「男らしさ」が正面きって問題になること自体が稀な気がする。

 いま続いていて私が愛読しているマンガで「男装」は、TONO『カルバニア物語』、戸川視友『海の綺士団』、あずみ椋『神の槍』。これらについてはまだ書くことがあるので割愛。あ、『大奥』もか。
 思うに、同じ「男装」でも、①自分の意志でしているのか強いられているのか ②女であることを隠しているか ③性別の自意識はどちらであるか ④恋の対象は男女どちらか など、いろいろと分類がある。細かく見ていくことはこの際しないけど。
 よかれあしかれ、昨今のマンガでのほうが男装設定に「気負い」が無くなっていっているように思う。
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4 コメント

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Unknown (菅田 春菜)
2007-04-21 19:29:45
古くなりますが、曽祢まさこの『不思議の国の千一夜』が懐かしいですねぇ。あの主人公は冒険の末に(助け出した??)お姫様と結婚して、後にはホンモノの男になるんじゃなかったでしたっけ。ですから、①は仕方なく?、②はトップシークレット、③は元気な男の子、④は妻とラブラブvですかね。
それから、栗本薫&いがらしゆみこの『パロスの剣』は…何か、後味悪かった覚えしか。(駄作ですよね)主人公を恋慕うロザリー役の女の子が乱暴されるシーンとか、必要あったのかなあ。まあ、①は王女が男装する理由は大抵お定まり。②は忘れちゃいましたが、③は?で、④もアンドレ役より前述のロザリー役の方に、より心が傾いていた気がするんですよ。
比較的最近だったら、『少女革命ウテナ』。これのコミックは先生にお借りしましたね。私は男装よりも百合というモチーフに惹かれるので、ちょっと偏ってますね(笑)
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その2作は (レーヌス)
2007-04-21 21:31:37
 ここで言及した『少女マンガジェンダー表象論』で、その二つはひとくくりで言及されてます。男装というだけでなく精神も男で、完全にそちらへ行ってしまう、むしろジェンダーカテゴリーを硬直化させるのでは、とどちらかといえば批判的なニュアンスが感じられます。
 私は『パロ剣』は読んだけど、--百合カップルの男モドキがそのまま「攻」なのっていま一つだな、と思った。エルミニアは女だと世間は知ってるけど、心はむしろ男寄り。ロザリータイプのフィオナとカケオチだし。
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「不思議」と「パロス」 (サラ)
2007-04-22 19:05:51
なつかしい、そして、異色の男装少女モノのタイトルに誘われて書き込みに参りました。

>男装というだけでなく精神も男で、完全にそちらへ行ってしまう、むしろジェンダーカテゴリーを硬直化させるのでは、

読んだ当時、完全に男性意識の主人公で違和感を抱いたものですが、、現代の知識で見ると、この二作の主人公は、「性同一障害」に近いのではないかと思います。

体は女だけれど、精神は男。
体と精神の性の不一致に苦悩している。

だから、女子が男装している物語ではなく、性同一障害者の物語として読めば、主人公への違和感が薄れるのでは(わたしがそうです)。

「ジェンダーカテゴリーを硬直化」との批判がどんな文脈の中で書かれたかは不明なのですが、この二作の主人公に限っていえば、「精神も男で完全にそちらにいってしまう」ことこそ、望ましい結末であったのではと思います。

まあ、「不思議」と「パロス」が発表された当時は性同一障害なんて、考え方すらなかったから、男装する女子として作者も読者もみなしてしまったのはしかたないのですけれど。
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「性同一障害」 (レーヌス)
2007-04-23 13:41:18
 これだと、厳密には男装・百合ではないのですよね。たぶん、『表象論』の場合は、女の自意識を持ちながらも男に期待される美徳(強さや賢さ)も発揮してゆくことが望ましいという立場なのだと思います。だから、完全に「男」になられては女全体のプラスにならないではないか、と。私も理解できますが、まぁ、本人が男を選ぶならばそれで幸せなんでしょうな。

 思えば理代子さんの『クローディーヌ・・・!』は、「性同一障害」を早い時期に扱っていたのだな。あれは自意識が男なので、恋する相手は女でも百合ではなかった。
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