駅前糸脈

町医者をしながら世の中最前線の動きを感知、駅前から所見を発信。

医療訴訟裁判の司法過誤

2015年12月28日 | 医療

             

  先日届いた医事新報を読んでいたら医療過誤ならぬ司法過誤という言葉が目に飛び込んできた。医事訴訟ウオッチイングを8年間続ける医師として、峰村さんという眼科医が紹介された記事の中にあった。理学部を出て旅行会社勤務後三十を過ぎて医師になった方で、医学しか学んでこなかった医師とは異なる視点をお持ちのようだ。福島県立大野病院事件をきっかけに医療訴訟に興味を持たれ、調査研究を始められた。中に医師に不当に厳しい判断があるのに気付かれ、司法過誤という表現で問題にされている。

 医療というのは専門的な仕事で、実経験のない裁判官にはその困難さが分かりにくいため、医師に厳しい判断が生まれる構造的な問題があるという指摘には、そうだろうなと思った。

 裁判官も色々で、実社会の感覚をお持ちの方も居られるようだが、中には純粋培養で判例法律で頭がいっぱいの方も居られる。父親が裁判官という女医さんが居たが、父は世間を知らない宇宙人ですなどと、どっきり発言をされたのを憶えている。中立公正とされる裁判官の中には家庭では分かっていない人扱いの人も居られるわけだ。

 人の人生を左右する判断を下す大変なお仕事とは思うが、紙上だけの知識では限界はあろう。過誤と言われることには多少抵抗はあるかも知れないが、謙虚に反省され、よりよい判決を目指して欲しいと願う。さもないと表には出にくいが、難症例を避けるというか逃げる傾向が出てきて、実害があるからだ。大きな声では言いにくいが能力経験のある医師がこれは難しい症例家族と見抜いて避け、能力経験不十分な医師が難しさに気付かず過誤を起こすこともあり得るのだ。

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二つのお願い

2015年12月27日 | 世の中

      

 押し寄せる師走の合間をくぐり抜け、少し遠出をした。一寸寒いといっても例年よりは格段に暖かい。「今年はコートが要りません、紅葉も全然ですわ」とタクシーの運ちゃんがこぼしていた。

 EXICで新幹線の切符を買ったのだが、乗車券まで一緒に購入できるようになったと知らず、乗車券を別に購入してしまい払い戻して貰うことになった。以前から思っていたのだが、特急券だけと特急券+乗車券は明確に判別できるようにして欲しい。特急券+乗車券はツートンカラーにするとか、特急券だけはピンク色にするとか、方法はいくつかあるはずだ。高齢者は眼が薄く、細かい文字まで注意が回らない。

 駅のレストランで横に腰掛けたお嬢さん、スカートがまくれ上がり、練馬大根にガードルが丸見えになっていた。さすがに下着までは見えないが、羞恥心を置き忘れたというか礼儀を忘れたらしい。こうした場合、まくれたスカートを下げるように言うとセクハラになるのだろうか、見ないようにしていたが良い気分はしなかった。

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遙か係累を離れて

2015年12月26日 | 身辺記

             

 昨日は年内最後の忘年会を五十年来の趣味の仲間と開いた。例年27日頃にやっているのだが、今年は暦の関係で25日になった。64歳から77歳までの七人、仕事も家族も関係なく、タイ料理に舌鼓を打った。

 やがて二十年の集い、私以外はこの土地で生まれこの土地で育った人達だ。縁あって、月に一度集まり飯を食ったり、作業をしたり、あれこれ話をしたり、二年に一回ほど海外遠征にも出掛けている。高齢者が殆どなので、いつまでメンバーが欠けず元気で居られるか分からないので、これからは年一回海外遠征したいと話し合っている。

 私以外は医療に全く関係なく、時に病気や医療のことが話題になっても、部外者の視点だから身につまされることはなく、気楽に話せる。とにかく、仕事と家族から離れて、ああでもないこうでもないと話せる時間は楽しく心休まる。

 私も医療関係の情報は掛け値なく伝えるのだが、異業種の人達の呉れる情報には目から鱗が取れ、へー成る程というものが多い。それと所謂地元の情報も貴重だ。もう三十年以上この地に住んで居るのだが、本当の地元のことは、土地で生まれ育った人には敵わない。これも、ええそうなんだと聞くことが多い。

 しかし、どうもとばっちりかも知れんがNTTはたちが悪い。関連会社だかなんだか知らないが電話書類攻勢で、困っていると話したら、全部相手にするなと教えられた。その他にも、こうすると得だと言うことも教えられた。なんだかなあ、よく分かっていない人間をセールストークで悩ませるのは止めて欲しい。

 これはたまたま実益もある話だが、それよりも何よりも、しがらみがなく忌憚のない話が出来る仲間は貴重だ。骨が休まる。

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失われた香り

2015年12月25日 | 人物、男

 

 古伊知郎氏が報道ステーションを降りるという。十二年やったと読んで驚いた。七、八年の感覚がしていたからだ。ちょっと長すぎたのではないか、鉄面皮ではなく、垣間見た印象ではすり切れ疲れが見えていた。

 ちょうど久米さんから古氏に交代した頃から、地上波を観なくなっている。未だに古と言えばプロレスの異常な早口の中継という二十年ずれた印象を持っている。こんなことを申し上げては失礼かも知れないが、結局、時事ニュースには合わなかったのではと思う。

 個人的には古さんに変わった頃から所謂地上波キャスターの香りが失われていったと感じている。老兵の懐古趣味と言われればそれまでかも知れないが、文化教養の香りが薄らいだ。久米宏のどこに文化教養の香りがという反論もあるだろうが、宮沢首相が、にっこり久米さんと話しかけたのを憶えている。そうした時代だったのかも知れないが、相手を認める余裕と寛容が失われてきたと思う。

 とにかく悪く言ってやろうなどという批判は一顧だに値しないが、きちんとした批評批判には理由があるわけで、悪口に受け取って反発力で元気が出るというのは、底が浅い感覚だろう。

 物事には潮時というものがある。ちょいと脱線するが、幹事長や官房長官は羽織を脱ぐ時が来ている、古氏の後を追われるのがよいのではと申し上げたい。

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映画、黄金のアデーレを観る

2015年12月24日 | 映画

                 

 ウイーンに行くとクリムトの名画「黄金のアデーレ」を鑑賞することが出来た。オーストリアのモナリザと言うべきこの名画を私に返してくれと、アデーレの姪御さんがオーストリア政府を訴えた顛末を描いた映画を観た。ナチスに奪われた名画の正当な所有権は法的には、ナチスを逃れ、今はロスに住む姪御のマリアアルトマンにあるはずだからだ。

 そんなことが出来るはずがないと普通の日本人は考えるだろう。ところがこれは事実を映画化したものなのだ。

 気が付けばその通りなのだが、アメリカというのは移民で成立した国で、第二次世界大戦では多くのユダヤ人がナチスの手を逃れ、アメリカに移住している。孫や曾孫には遠いけれどもヨーロッパはもう一つの祖国と言うべき存在のようだ。

 ナチスが何をしたか、又その暴挙を多くの市民が支持許容したという歴史的事実が映画から伝わってくる。そのことをオーストリア国民は憶えているようだ。アメリカの法を法として尊重する姿勢とナチの記憶が驚くべき結末に結びついてゆく。

 そうした経緯は勿論興味深く描かれているのだが、私には娘をアメリカに逃し自分達はウイーンに留まらねばならなかったマリアの両親とマリアの別れのシーンが一番印象に残った。画面が滲んでしまった。どうして人間はこうした酷いことをしてしまうのだろうか。ナチまでは行かなくとも、それに連なる思想と言うより思考は今もある。平和は51対49で辛くも保たれているのを決して忘れてはならないと思った。

 写真はネットから拝借

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