駅前糸脈

町医者をしながら世の中最前線の動きを感知、駅前から所見を発信。

ウイルユー プリーズ

2008年03月30日 | 診療
 「頼むから静かにしてくれ」というのはレイモンドカーバーの短編(村上春樹訳)で、題名だけが奇妙に心に残り時々反芻するのだが、頼むからそんなに早く来ないでと思うこともある。
 朝医院を開けるのは私の仕事だ。雨風が強くなければたいてい数名の患者さんが玄関を開けると同時に入ってくる。どうも落ち着かない。ほとんどは診察券を入れて一旦は自宅に戻られるのだが、中には取っている朝刊や置いてある雑誌を読みながら、診察までの一時間を待合室の椅子で過ごされる方もいる。
 玄関の次に窓を開け、コンピュータを立ち上げ、検査データをチェックし、ファックスやメイルに返事を書いてと忙しい。いつもコーヒーを入れるのだが、胃の検査などがあると飲む暇が無く、診察が一段落した時に、ちょっと冷えたのを頂くことになる。
 内科の診察なんて簡単。血圧を測って、ちょっと言葉を交わして変わりがなければ二言三言注意をしてお終い。診察?、別に薬をくれるだけでよいと思われている患者さんもおられるようだ。変わりがないと言われることが本当にありがたいことだと気付かれないらしい。実はなんでもないと判断するのはとても難しい。
 どんな仕事もそうだと思うが、良い仕事をするには勉強と経験に加え日々の細々した下準備が必要だ。それに、十分力を発揮するには体調や精神状態が良いことが望ましい。
 他愛もないことのようだが、朝 数分でも心静かにできる時間が作れると、その日の仕事が順調に行くように思う。
 
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リーダビリティ

2008年03月27日 | 
 開高健 小平邦彦 小野寺健 津野海太郎 野田知佑 川本三郎 村上春樹 椎名誠・・などのエッセイを時々読む。書き手の彼らにどこか共通点があるかどうかよくわからないが、読み手の私には読みやすく、繰り返し読め、仄かに面白い。
 小説はほとんど読まなくなったというか、読めなくなった。大江健三郎などは初期の作品は読めたが、なんだか長たらしい題名がつくようになってからは、読みにくく読まなくなった。ノーベル文学賞選考委員と意見を異にするのだが、私は大江作品の題名に文学的センスを感じない。散文の極北と言われれば、そんなものかなとは思うが。
 それともう一人、森の石松ではないが、希有の書き手、洲之内徹を忘れてはなるまい。彼の審美眼には影響を受けたというか目を覚まさせられた。彼の選んだ作品を、文章を読んでから見て、がっかりすることがないのは凄い。ちょっと粘っこい独特の文だが、やはり私には読みやすい。
 おそらく多くの年配者は、仕事は別として、読みづらい文章を読まないと思う。読みやすさとは何かというのは難しいが、文体が関係していると思う。内容が難しいと読みにくいというわけではなさそうだ。
 リーダビリティ(読みやすさ)とはどういうものか、研究されていると思うが学際的で、定量化しにくいので、意外に専門家は少ないのかもしれない。
 コミュニケーションが重要な仕事をしているので、果たして自分がリーダビリティの高い会話を患者さんと交わせているか気がかりだ。何たって相手は、よくわからなくったってハイと言う人がほとんどだから。
 
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十万億土 第一歩

2008年03月25日 | 学思
 記録に付けて数える趣味はないので、もう何枚死亡診断書を書いたか定かではないが400枚近いと思う。その多くは何ヶ月も何年も経過を診ての別れだった。何枚だなどと不謹慎と思われる人もおられるかもしれない。しかしだから耐えてこられた面もあるので許して頂きたい。
 一般の方の百倍以上死と立ち会ってきたが、死が一体どういうものか他の職業人より、深く理解できたとはとても思えない。ただ、死にゆく過程をたくさん身近に診てきたので、実際がどうゆうことかはよく知っている。
 心象としては死は生きている者には永遠の音信不通にして唯一絶対そして不可逆の出来事、死んでいく者にとっては突然あるいは緩慢な解消というか消滅なのだろう。亡骸というが、解消消滅するのは意識、もっと言えば精神あるいは魂、つまりはその人と思う。亡骸に取りすがって、どんなに泣いても悲しいばかり、それでも涙があふれてくる。無能の医者として号泣の中、何度立ち尽くしてきたことか。
 尊厳死が話題になるが、それは生きている社会の言葉、そして待遇の問題に感じる、尊厳生はあるかもしれないが、それはこちら側のこと。死はそうした生きている者の都合を冷たく無言に拒絶している。
 書きにくい言いにくいことだが、死ぬのは人間には凄く大変なことだ。
 楽しい話題ではないかもしれない、しかし決して向こう側を見ることのできない鏡を見て、生を知ることができるように思う。折に触れて、また書いてみたい。
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紅茶とコーヒー、その一

2008年03月23日 | 旨い物
 日にコーヒーを一、二杯、紅茶を三、四杯飲む。三十歳くらいまでは、ほとんどコーヒーは飲まなかった。飲んでもインスタントのことが多く、必ずミルクと砂糖を入れていた。二十数年前から徐々に家庭でも簡単にドリップ式のコーヒーが飲めるようになり、時々飲んでいるうちに、少し薄めにいれてストレートで飲むと飲みやすく、味わいが楽しめるのに気づいた。本当のアメリカンは焙煎を浅くして豆の量は十分使うらしいが、豆の量を少なめにした簡便アメリカンでも、まずまずの味だ。
 産出国でいろいろ味が違うというので、試してきたが三種類くらいに飲み分けることができるが、紅茶ほどは上手く行かない。豆の表示と内容にずれがあるのではないかと疑っているが、それでも私には紅茶よりも銘柄を当てるのは難しい。
 コーヒーにあって紅茶にないものは、まったりとした旨味だ。残念ながら、まったりと旨いコーヒーを家庭で入れるのは難しい。専門店でも旨味のあるコーヒーが出せるのは十軒に一軒くらいの割合だと思う。昔三十年くらい前、神田に斉藤コーヒーというのがあった。いつもまったりと美味しいコーヒーを入れてくれたのだが、久しぶりに行ったら味が落ちていた。今はたぶん、店自体がなくなっていると思う。
 幸い当地でも、旨いコーヒーを入れる店を二軒ばかり見つけた。月に一度くらいどちらかの店で所在なげにコーヒーを楽しんでいる。それと友人Fが趣味の仲間の集まりの時に入れてくれるコーヒー、これが格別においしい。何も特別なことはしていないようだが、インドネシア中心の東南アジアに十年住んでいた生活体験から悠々迫らず醸し出されるホスピタリティの効果か、いつもみんなでお代わり頼んでしまう。
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ルール変更にめげず

2008年03月20日 | 医療
 試合中にゲームのルールを変えられては堪らない。そんなことをされれば公正さが崩れ、ゲームが成立しなくなってしまう。どうしてもルールを変更する必要があれば、シーズン終了後、公開で討議してから行うことになるだろう。それが世の中の常識だ。ところが、医療では試合(診療)中にもかかわらず、どんどんルール(治療方針と治療目標)が変わってゆく。というのは医療にはスポーツのようなシーズンオフは無く、ルールが最新の科学的なデータと治療法に基づいて決まってゆくからである。
 一般の人にもなじみ深くなった生活習慣病と言われる高血圧症、高脂血症、糖尿病のルール(診療基準)は、十五、六年前までは十年単位くらいでゆっくりと変更されてきた。ところが、この十年は数年単位で変わってきている。それだけ、臨床のデータが蓄積され、新しい薬が出てきているのである。ルール変更の度に、目標値はより厳しくなり、血圧もコレステロールも血糖も目標値がより低くなった。コレステロールに至っては今までと違う種類のLDLと呼ばれる悪玉コレステロールが主役に躍り出てきた。
 より良い予後のために厳しい目標を設定するのは当然とはいえ、その新しい目標値に向けて迅速な対応を迫られる最前線の町医者はなかなか大変だ。というのは今までとちょっと違うことを言わねばならなかったり、場合によって薬や検査を増やさなければならないからだ。新たな要求はいつも、多くの患者さんの抵抗に会う。大丈夫のようなことを言っていたのに、もっと薄味にしろ、もう少し痩せろ、甘いものを減らせ、運動しろと注意されて、なんだか薬も増えて、支払いも増えたりすれば、不審の目が返って来るのは当然かもしれない。
 そんなわけで、町医者というのは走っている最中に急にハードルが数cm高くなる、過酷?なレースに出場しているようなものだ。いや、私の仕事にはもっとひどいルール変更があるという声も聞こえそうだが。
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