駅前糸脈

町医者をしながら世の中最前線の動きを感知、駅前から所見を発信。

ホメオパチーにレッドカード

2010年08月31日 | 医療
 日本学術会議がホメオパチーは科学的な根拠のない無効な治療法であるとの会長談話を発表した。異例のことだが通常の医療を受ければ助かったと思われる患者さんが亡くなる実害が出ているために、こうした発表に至ったようだ。
 健康医療業界には所謂隙間産業が跋扈している。効果がない無意味だと証明することが容易でなく、そんな費用も時間もないために、もっともらしい健康増進や治療用の物品が数多く出回ってしまう。
 これをけしからん、間違いと簡単に処理できないところが人間界の不思議というか人間の実態で、黒白が付けにくい灰色分野を取り除くことは困難の感じもある。勿論、それを知りながら金儲けのために妙な物を言葉巧みに売り抜ける人達には大いに遺憾だ。それほどでなくても**物産店などに行くと、売り子が「これは美味しいですよ」だけでなく「身体に良い」などと科学的な根拠もないのに付け足す時代になっている。
 学術会議がこうした発表をする背景には権威を持ち出さないと、実害が食い止められないという現場の切歯扼腕があると思う。
 医師の中にも溺れる者に藁を差し出す方が居られる。これは非常に微妙な問題で、浮き輪があるのに藁を差し出しては問題だが藁しかなければ藁でも、という考え方もあるかもしれない。そう言ってはなんだが、ただの藁ではとどうも効果がないと、どこか教祖的な色付けが加えられているように見受けてしまうのだが。
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混乱する感覚

2010年08月30日 | 自然
 今朝も青空、何処微かに青が透き通り秋空の気配を感じる。風にも秋の肌触りがあり、虫の声も秋なのだが、まだ油蝉の声が混じり日差しは強い。休日画家の私は日差しの色に秋の色を見分けるのだが、これが色に反して肌に当たると痛いほど暑い。
 季節感覚が何処まで個体の経験から形成されるのか知らんが、一体季節はいつなのだろうと分からなくなる。九十を過ぎられた患者さんが、お爺さんもお婆さんも、こんな暑い夏は初めてだと言われる。六十代の私が途方に暮れるのは当然か。
 よく親父が言っていた。エッセン、デンケン、アルバイテン、これは独逸語で食べ考え学び働けというほどの意味らしく、人生の極意として唱えていたらい。なんだか二十一世紀初頭に奇妙な気候と未曾有の社会現象に行き当たったようだが、息子の私もエッセン、デンケン、アルバイテンとお呪いを唱えることにする。
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人間ロケット

2010年08月30日 | 町医者診言
 子供の頃サーカスで人間大砲を見た。宣伝文句の割にはあっさりした見世物だった記憶がある。今でもあるかどうか。
 ところが、気がつくと此の頃は人間大砲でなく人間ロケットが飛び交うようになっている。狭量でいがみ合うように人間はできているのだろうか。人の悪口を言って、その推進力で生きておられるのではないかと思える人達が居られる。ほとんど地上波のテレビは見ないのだが、家内が見ているのが耳に入ったりすると、なんでそんなに悪く言えるのだろうかと不思議な気がしてしまう。インターネットにも特定の人や国を攻撃誹謗するためのブログがある。誰かを悪く言い募ることは簡単なことだ。猜疑心が強く実は独自の才能に乏しい人達なのだろう。
 生物の多様性が失われつつあると聞く。多様性を保つ生物的な意義には不案内だが、多様性を受け入れる心が大切なのは理解できる。私はあんまり小説家を尊敬しないのだが(自分の好きなことをして生きている?人達のような気がするので)、小説は物事や人生は一言では片付けられないということを教えてくれる。別の言い方をすれば小説は要約出来ない。きっと人間もそうだろうと思う。言い募るばかりのぼろ錆び刀で一刀両断に人物を切れるとも思えない。
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アメリカの印象

2010年08月28日 | 世界
 私のアメリカ体験や知識は限られたものだが、その印象を例によって三つの言葉で表せばfair、crude、young(still)と言うことになるだろう。これらの言葉の意味するところを短く説明するのは難しく、その語感のイメージを味わって頂いた方が良いかもしれない。
 アメリカ生活の長い方、米国史に造詣の深い方、そしてアメリカ文学を愛好する方々に三つの言葉を挙げて頂くと、ちょっと図々しいかも知れないが、たぶん一つくらいは重なるような感じを持っている。
 Fairというのはいろいろな意味があるのだが、fairnessということを取り上げれば実際はともかくその精神を重んずると言うことで抜きん出ていると思う。
 翻って我が国では、それが抜きん出て欠けているんではないかと思ったりする。
 ボクシングなどでホームタウンデシジョンと言われるものがある。理解可能な身贔屓と言ったものだと思うが、我が国では自国の首相や重要政治家を腐すために外国の酷評を喜々として引用している。これを何と言えばよいのか分からないが、広い意味のfairnessの欠如だと思う。尤もこれはマスコミや一部の人達に限った病気かも知れない。
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一郎が表に

2010年08月27日 | 政治経済
 遂に小沢一郎が表に出て来た。遅かりしか間に合ったのか知らないが、日本にとって大きな決断だ。
 この人ほど揣摩憶測で無茶苦茶に言われ書かれてきた人は居ないだろう。ついこの間の週刊誌にも「小沢は死んだ」。などと他の人なら問題になる見出しがあった。例えば王や長島にこうした見出しは禁忌というか、付ければ大問題になるだろう。一体マスコミはどのような資格と理由があって、一人の人間を貶めようとしているのだろうか。
 小沢一郎の事実を知った上でのマスコミの報道は乏しい。政治と金というお題目の中身をどれだけ理解しているか、とても郷原さんの説明を理解しているとは思えない。小沢が嫌いだ小沢は都合が悪い。目を凝らせば、人相を悪く撮った写真を利用してネガティブなイメージを打ちだそうという意図が見える。
 私はマスコミが小沢一郎の論評を止めるように提案したい。彼の記者会見の一部始終を報道するだけに留める。政治経済のような複雑な物事を一言で言うことは決して出来ない。どんなに短くしても八百言は必要、時間にすれば十五分は掛かる。しかも対話や質問で経緯や疑問点を補う必要がある。十分な判断材料を提供することだ。国民は何時間もかけて、自分自身で事実を洗い出し内容を吟味して官か小沢かを判断すれば良い。それが世論調査などという薄っぺらい情報を凌駕して、投票権を持つ人の行動に反映されるだろう。
 のうのうと太り、大マスコミの論説委員などという鎧に守られた人の既成概念に捕らわれた論評など自分のブログで発表すれば十分、全国紙に載せる価値はない。
 小沢一郎がどんな人かよく知らないが、その言説は是非はともかく筋が通って一貫性がある。菅さんは残念ながら軽率で品性で遠く鳩山さんに及ばない。
 首相がころころ変わるのは良くないが、それは首相を変えない第一の理由にはならない。物事には軽重と優先順位がある。投票権を持つ人は誰かの口真似のようなことを言わず、自分の目と耳で事実を洗い出し、自分の脳で判断してこれからの日本のために投票してほしい。
 
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