駅前糸脈

町医者をしながら世の中最前線の動きを感知、駅前から所見を発信。

NHK碁観戦を楽しむ

2008年06月30日 | 贔屓
 日曜日はNHKの将棋囲碁観戦とはかま満緒の日曜喫茶室を楽しみにしている。
 日曜喫茶室を減らして、面白くもない松何とかの番組を増やすなんて、NHKのセンスを疑う。大人の聴取者のために、はかま満緒の日曜喫茶室を元通りに戻して欲しい。
 将棋と碁どちらも好きで、比較談義をしたいが、ヘボ山ざる夫なのに大層なことを書いて顰蹙を買いそうなので、またいつかにする。ただ、五、六分お話をすれば、どちらのプロか8割がた当てられる気がしている。
 今日の碁は梅沢由香里さん登場で、当然応援したのだが相手が悪かった。山城九段は女流棋士が勝ちにくいタイプなのだ。挑発に乗らず、しんねりきっちり打ち回す。
 ザル碁打ちの見るところでは右辺の帽子の攻めが腰が伸びてしまい、残念な結果になったように思えた?。
 久しぶりに梅沢さんを拝見した。以前司会の時は解説者がどぎまぎする発言をして痛快だったのだが、あれから結婚され、普及に功績があり、ついにはタイトルも取られた。気持ちを素直に出されるので応援員としては、はらはらして見ていたのだが、ご同慶の至りだ。
 へぼでも一応解説者の意見を参考にして予想しながら見るので、少しは頭を使う。それがどういうわけか、あと何分の表示が写されるたびちょっと気持ちが和む。なぜか分かる人はおじさんですね。
 囲碁観戦を始めた頃は中国が台頭してきて、そのうち韓国の後塵を浴びるようになった。最初はちょっと弛めているのかなと思っていたが、そうではなくて本当に向こうの方が強くなったようで残念だ。どうも日本の棋士は仲が良すぎるのではないか。真剣勝負だから、あいつより俺の方が強いといった気持ちがなくては紙一重の差を抜け出せないと思う。
 
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今日も雨

2008年06月29日 | 自然
 雨の朝は静かで薄暗い。カーテンを少し開けると。鉛色の空から雨がしとしと降っている。今日も雨だ。厚い雨雲の曇天が続くと、雨が降らなくても雨の続きに感じられ、もう何日も降っているように感ずる。
 小雨はあっさりと記憶に薄く、長雨や豪雨は記憶にも溜まり、思いがけぬ昔を思い起こさせる。見慣れた町が油絵のように利休鼠に煙る梅雨の雨。みるみる浮子の周りに波紋が広がり、突然降り出す大粒の夕立。足下に小石を残しながら、土砂に濁って溝に溢れる台風の雨。
 ぐちゅぐちゅと靴に水が入り込み、傘は僅かに頭髪を守るだけ、肩口まで濡らして帰るとタオルと下着が用意してある。勝手口で足を拭き、風呂場で着替えたのを思い出す。なんと気持ちよかったことか。
 故郷を離れ、別の土地に根を下ろしている者しかわからない感興。いやあるいは生まれた土地に暮らす人にも、故郷は時の彼方にあって懐かしく、川面に降り注ぐ雨や軒の雨音にふと思い出す少年の日があるのだろう。
 雨は庭や道路や田畑だけでなく、心にも降り、渇いた心を潤し、物思いを誘う。 雨の日曜日、朝バロックを聞きながらコーヒを飲む。What else?

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五右衛門に聞きたい

2008年06月27日 | 世の中
 「浜の真砂は尽きるとも世に盗人の種は尽きまじ」は石川五右衛門の言葉?。史実には疎いが、どうも五右衛門は骨の髄までの悪人には思えず、親しみさえ覚える。五右衛門の言いたかったことは悪というのは根絶しがたく、いつまでも世にあるということだろう。善と悪は裏表なので半々に存在するらしく、人類が存続する限り両者のせめぎ合いが続くと思われる。
 善悪を体現する人間は重層した複雑な存在なので、善人から悪人まで微妙なグラデエイションがあり、そこにさまざまな要素が重なり、互いに絡み合って世の動きを錯綜混乱させている。私の経験見解では悪に劣らず困るのが愚という要素で、程度が軽微で権限のない人物の場合は与太郎で笑って済むが、人気投票でトップの座に納まった人物に混入すると被害甚大なことが起こりうる。いや起きている?。任期終了間際だかなんだか知らないが、またもや妙な判断をしている方が彼方に居るようだ。
 此方の追随判断も理解に苦しむが、力がないとこういうことになるのか?多少善でも弱いと駄目か?。どうもすっきりしない。政府の裏では大局的に妥当と考えた末の予定の行動で、表では国民の多くを欺き幻想を与えてきたのだろうか。どうもよくわからない。
 残念ながら世の中には理不尽が溢れている。どんなに不幸でも絶対優先と言い募るのには、申し訳ないがそうだろうかと思うこともある。悪で狡な相手に少し譲る策はどんなものかと五右衛門に聞いてみたい。なんと答えるだろうか?
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写真は胸部単純に収斂

2008年06月27日 | 診療
 今日は月に一度の胸部レントゲンを読む会に出席してきた。自院で撮影した胸部写真を持ち寄り複数の目で、見落としがないか確認しようという勉強会である。
 医院に限らず、自営業といえば小なりとはいえ一国一城の主で、独立自尊と格好よさげだが、実は孤立無援視野狭窄の陥穽もあるわけで、勉強と実益を兼ねたこうした会合は、同業のよしみで気兼ねなくあらゆる情報の交換もできるし、患者や従業員の愚痴もこぼせて、とても有意義なのだ。もちろん、自然発生的に生まれるものではなく、良い世話人が欠かせない。当医師会もKちゃんの面倒見と好企画に負うところが大である。
 他の業種ではどの程度出身大学のこだわりがあるものか知らないが、医界ではまだ相当医局制度の名残があり、大きな総合病院はほとんど系列化されている。しかし幸い医師会内ではほとんどそうした系列がなく、気持ちよく話ができる。これは自立した個人の集まりの良さだと思われる。まあ、十年二十年つきあえば、何処の大学の出身であろうと人品骨柄が顕れて地のつきあいになってゆくわけだ。
 どころでなぜ、CT、MRI、PETなど進歩した画像があるのに胸部レントゲン写真かというと、もちろん普及していて頻回に撮影するということもあるのだが、実は一番読影が難しく奥が深いからなのである。早期肺癌など、アンドロメダ星雲のようにぼんやりした影で、気のせいかと思われるくらい微かにしか見えない。並の医師は大抵見逃してしまう。胸部レントゲンがきちんと読影できれば、一人前の内科医と言われる所以だ。
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政治はどこから

2008年06月26日 | 世の中
 一体何人くらいの人数でどんな関係があると政治が始まるのだろうか?
 医師会の総会があったので、出席して二、三質問をした。たいしたことではない、最近厚労省も力を入れている病院と診療所の連携について説明を求めただけだが、なんだか批判をされたと勘違いしたのか、全然質問と違うことに返答されたのでちょっとあきれた、政治家みたいじゃないかと思ったのはこちらの錯覚で小なりといえど医師会役員は政治家のようだ。議長の指示で別の担当者が適切な答えをされたので納得したが、違う土俵でそっぽを向いた受け答えをするのは政治家の特技というか極意のようだ。確かに、同じ土俵だと寄り切られたり、怪我をしたりと険悪な事態になりかねないので、すれ違う答弁をするのは異なる意見を持ちながら互いに生き延びる知恵なのかもしれない。
 同業のあつまりである地方の医師会では決定的な対立は少なく、どちらの意見が厚遇されるかといった面子が絡んだ小さな対立がほとんどだ。それでも異なる意見を融合させる技術は不可欠で、そうした活動と手法が政治の始まりなのだと理解している。
 この年になって今更だが、何で政治の世界はちぐはぐごちゃごちゃとしてスムースに事が運ばず、進歩がない?のだろうかと思う。これは自分が勉強不足だからそう見えるとというわけではなさそうで、政治や社会の勉強研究をした碩学?が、互いに譲らず時に激しい非難批評をしているのをみると、政治の勉強研究が建設的な融和にほとんど役立たないからのように思われてしまう?。
 もっとも、政治の問題は数千年で解決できるほど生易しいものではないのだろうとは思うが。
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