駅前糸脈

町医者をしながら世の中最前線の動きを感知、駅前から所見を発信。

消えゆく、残り少なくなった人達

2017年10月31日 | 人生

    

 八路軍の使役を五年やったというお爺さんがもう二十年も通って来られる。最近は杖歩行で娘さんの付き添いが必要だが、九十六歳にしては脳味噌はしっかりしておられ、大声で話せば何とか話が聞ける。耳が遠くなる前にもっと話をしておけばよかったと思う。寡言な人で雑談をしてこなかったのが悔やまれる。写真が趣味で私家版の立派な本を戴いた。もう十五年も診察室の本棚に置いてある。町の風景が中心の写真集で戦後の変遷がよくわかる。結構見る人が居るようで表紙がだいぶん汚れてきている。

 三か月ほど前、暑さで体調を崩され、食事が取れないということで二度ほど往診に伺った。これが当院の周りには珍しい立派なお屋敷で、何だかくねくねと曲がった松が植わっていた。立派な門から二十メートルほど石畳を歩いて玄関にたどり着く、上がり框に続く磨かれた廊下を左に曲がりしばらく行くと寝室があった。何だかいつもの往診と趣が違い、庄屋や家老に呼びつけられた医者のような心境になったものだ。寝室と言っても八畳はある。軽い熱中症のようで点滴をしたところ回復され、また通院できるようになった。

 昨日も来院されたのでちょっと昔のことを聞こうとしたが、中々聞き取れずお嬢さんの通訳でようやくわかったらしく、一言「みんな死んじまった」としゃがれた大声で、取り付く島のない答えが返ってきた。どういう訳か本当のことを知っている人は寡黙で、貴重な記憶と共に消えゆくようだ。

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今は先達の賜物

2017年10月30日 | 小考

 

 台風一過の秋晴れで今日は青空が広がっている。毎週末台風で風と雨にたたられっぱなしだったので、月曜日だが秋晴れが嬉しい。

 昔、武士道が生きていた頃、こういう若武者が居たと聞く。戦に敗れ敵に追われて同士と逃げる道すがら、腹が減って辛くなった。偶然、神社の供え物を見つけ、しめたと貪り食っていたところ、独りだけ、じっと見守るだけで手を出さない若武者が居た。「何で、お前は食わないのだ」「拙者はしんがりを務める覚悟です。切られて腹から供え物が出てはわが軍が笑いものになります」。

 仲間の名誉を守るためとはいえミーラーストというのは、最近はついぞ聞かない考え方だ。

 都民ファーストアメリカファーストに続きカタルーニャファーストが聞こえる。

 世の中は回りまわっている。ミーファーストが結局はミーファーストに繋がらないことはじっとしばらく考えればわかりそうな気がするけれども、十の投資が遠い先の二や三の見返りでは納得できず我慢できないのだろう。しかしそれでは大成できないのはあらゆる仕事に共通した法則と思われる。身近なスポーツを見ればすぐわかるだろう。

 若者は安定安全志向と聞く、実はその安定安全は目先でなく遠くを見て下された先達の判断の賜物でもあることに気付いてほしい。安全安定な青春からは大したものは生まれない気がする。見苦しく恥ずかしい青春がジャンプに繋がるホップステップのように思う。

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足りないインフルエンザワクチン

2017年10月29日 | 医療

  

 インフルエンザワクチンが不足しており、例年の八割しか供給出来ませんと卸業者に言われている。報道では一割の不足と言っているが、実際にはそれ以下でしかも遅れがあるので、受付は電話の応対でてんてこ舞いだ。

 当院はインフルエンザワクチンを予約制にしている。そうしないと一般診療に差し支えが出てしまうからだ。今年は断続的な供給になっているため、半数以上の電話の申し込みにお断りと説明を繰り返さねばならない。受付がイライラしてくるのが分かる。

 この不足、あまり問題視されないようだが、インフルエンザワクチンは毎年のことなので、きちんと十分供給されるようにして欲しい。出来るはずだ。厚労省と製造業者お互いに責任を譲り合っているようだが、どちらにも責任があると思う。

 希望者全員に打てないので本当は優先順位を付けたいのだが、今の世の中では中々難しい。年寄り優先には異論も出そうだ。壮健な若中年にはご遠慮願っても良さそうだが、働き盛りに休まれては困るという声も聞こえてくる。

 いつも区別をする判断基準の設定判断が難しく、結局平等(しばしば不自然)で行きましょうということになる。

 いつもはキャンセルが出るとそれを職員に回しているのだが、今年は未だ一人しかキャンセルが無く、私は未だ打っていない。やれやれ。

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端折らない議論を

2017年10月28日 | 政治経済

 

 憲法改正に反対する人は皆無と言ってもいいだろう。共産党も賛成するはずだ。改正というのはより正しくするという意味なのだから。唯、何がより正しいかに幅広い合意形成が必要になる。

 単に改憲と言えば、変えるということだから、その内容次第ということになるのはこれまた当然の話だ。しかるにマスコミは中身に踏み込まず、改憲賛成反対と表現してしまう。政治家も然りだ。どうかしていると思う。

 勿論、こうした短絡表現にはそれなりの理由があって、背後に存在する改憲を主張する側の意図と阻止しようとする側の怖れを端折ってしまっているのだ。内容に踏み込むと、議論が白熱するので避けていると思われる。しかし、こんな真正面の議論を避けた短絡した問題提起で、正しい判断が出来るとは思えない。

 九条第三項に自衛隊の存在を追加明記すると何がどう変わるのかをきちんと説明しないで、命を掛けて国民を守っている自衛隊をないがしろにしてよいものかあるいは武力が無くては国が守れないと感情に訴えても、憲法改訂理由の説明にはならない。一項二項との整合性を詳らかにしないで、感情に訴えるのは賛意を得るための戦略のようにさえ思えてしまう。

 憲法を蟻の一穴から漸進的段階的に変えようとする意図があるとすれば、私が端緒を開いたと歴史に名を残そうという気持ちがあるとすれば、正直に言って欲しい。政治家同士では騙された方が悪いそうだが、国民相手ではまやかした方が悪いのではないか。

 政治家同士で策略の巡らすのは結構だが、国民には分かり易く説明提示する義務があると思う、ニャロメ。

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いつかではなく、今でしょ

2017年10月27日 | 世の中

     

 見苦しいとは知りながら電車で席が空くと駆け寄っている。朝の通勤時間帯は若い人が多いから黙って譲ってくれる、有難い。今頃になって五十年前の古傷が痛み出した。学生時代、膝を怪我して三週間ほど入院したことがある。年配(お爺さんに見えた)の主治医に「足の悪い先生(本当はびっこの医者と言った)と言われるといけんからな」と安静を指示され、お陰で後遺症もなく過ごしてきたのだが。今頃になって階段の昇降時僅かに痛むようになった。

 年を取ると自然に昔のことをあれこれ思い出す。あんなに世話になったのに何のお礼もできなかったと思い出す人は数多い。こんどとかいつかは来ないというのに気が付くのは、年を取ってからで、若い時は無我夢中で走ってしまう。

 私の医院ではホワイトボードにどこの病院に誰を紹介入院させたかを書いている。ほとんどの病院はきちんと転帰を報告してくる。S病院は偉そうな理念を掲げてはいるが、入院しましただけでどうなったかを、半年一年経ってもうんともすんとも連絡してこない症例が多い。高齢の患者さんが多いので亡くなったのだろうと推定してはいるが、送った方が気に掛けていることをご存じないようだ。しびれを切らし一筆書いたところ、事務長が飛んできて申し訳ありません、直ぐ報告させていただきますと頭を下げて行った。

 どうしてそうなっているは分かっている。上司の目が医員に行き届いていないのだ。組織を滞りなく闊達に運営することは難しい。外部からは問題点が見えるし指摘しやすいので、素性の分かっている同業者には遠慮なくご注意申し上げている。ほんの少し副作用があることもあるが概ね前向きに受け取られ、関係が良好になることが多い。

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