駅前糸脈

町医者をしながら世の中最前線の動きを感知、駅前から所見を発信。

危険を承知が科学

2009年02月28日 | 世の中
 薬のネット販売が規制された。私はネット販売による薬の濫用や副作用発生の実態実数を知らないが、こうした規制の妥当性が十分なデータに基づいて判断されたかどうかを危惧する。消費者の真の利益が多面的に科学的な目で保護されただろうか。
 薬の副作用の意義は頻度と程度によって異なり、薬の効果には広い意味では入手しやすさや値段も含まれる。副作用と効果を天秤に懸けるには医薬だけでなく法律経済の視点も必要とされる。それが可能な限り科学的に判断されただろうか。というのは行政の判断はしばしば責任逃れ的で、臭いものには蓋というか、妥当なリスクも取らないからだ。これには、国民の側にも問題があって政府に無謬と無限責任を求めてしまうところがあり、どうしても行政側は防衛的になってしまう。
 それならそれでよいと思われる方も多いかもしれないが、そのために大きな損失と無駄が生じている。薬のネット販売の場合は遠くまで買いに行かなければならない、使える薬が使えないなど・・。あらゆる業種を洗い直し、必要以上に厳しい規制を科学的に妥当な線にすれば、定額給付の何倍もの費用が浮くと思う。
 効率性を重視するとお金のことしか考えないとんでもない人が出てくるので、効率性は悪いことのように扱われがちだが、程度と頻度を考慮し妥当なリスクは取るのが科学的ということだと思う。羮に懲りて膾を吹いてばかりでは、21世紀を生き抜いて行けまい。
 
 
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絶滅危惧種の気分

2009年02月27日 | 診療
 十年くらい前だったか、どうも飯が不味いという爺さんを診察したら、上腹部に小さいステーキのようなしこりが触れた。これは胃に何かあると総合病院に紹介状を書いた。数日して爺さんが返事を持ってやってきた。胃癌で手術が必要と書いてある。「何度も本当に触っただけかと聞かれました」。触っただけで分かるはずがないと信じられなかったようである。
 私を教育してくれた先輩達は腹部触診のコツをそっと教えてくれた。それぞれ先輩の先輩から教わったコツに自分の経験を合わせて編み出した簡単ではあるが独特の方法だった。たぶん、私が耳を傾ける良い生徒だったこともあると思う。最近の研修医は腹部を触る時はこうやってと教えても興味を示さない奴が多い。確かにエコーやCTのある時代に、腹の触り方など何を勿体を付けてと思う気持ちも分からぬではないが。
 一昨日も高血圧でいつも来ているT婆さんが腹が痛いとやってきた。触診すると急性虫垂炎の所見なので、入院手術が必要と思いますと紹介したら、CTで急性虫垂炎の所見がありましたので、手術させて頂きましたと返事が来た。ああそうした時代なんだと改めて思った。問診や触診に依る診断はその正確度では画像診断に敵わないが、私の年代の医者には問診と診察が診断の根幹で画像診断はそれを確認補佐するものという印象がある。勿論、症状や所見のない初期の病変は画像診断の独壇場であるのだが。
 それともう一つ、日本人の悪い性向だが、診察所見での診断が画像診断で覆された時、何となく馬鹿にしたり恥ずかしいと思ったりする習性があるので、余計に診察の腕を磨く努力がおざなりになってきているのだろうと思う。
 引退したりもう居ない先輩達はお前程度でと言うだろうが、なんだか絶滅危惧種になっていくようだ。
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二月は逃げる

2009年02月27日 | 身辺記
 今日は雨がやんで曇り空の下を出勤した。青空は見えなくても穏やかでさほど寒くなく、良い気分で歩けた。雨が続いたせいか風邪の患者さんはほとんど居なくなり、花粉症も一段落だ。
 診察が始まる前にのんびりコーヒが飲める。何気なくカレンダーに目をやると二月はあと二日しかない。母がよく言っていた「二月は逃げる」と。
 確かにたかだか二、三日のことだが他の月より随分短く感じる。短い月を西向く士と教わったが、二月だけ飛び抜けて短い。私が思うにどこかのあまり賢くない皇帝か妃が寒いのが嫌いで、寒い二月を短くしたのではないか。なんたって、ローマ皇帝は七月をJuly八月をAugustにしてしまうくらいだから。これは全くの思いつき。
 人間の感覚はいろんなことに影響されるから、子供心に残った逃げる二月の暗示効果もあるかも知れない。個人的には六月と九月はあまり短く感じない。四月と十一月はやや短く感ずる。一月と八月を長く感じるような気がする。
 月を数字で表すと計算はしやすいが、情感に乏しい。なんで昔の月の呼び方を捨ててしまったのだろう。父や母はこういった話題が好きで、きっと話に花が咲いたと思うが、今はコーヒのお茶菓子代わりに一人で連想するばかりだ。
 
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おくりびと 観る前に

2009年02月26日 | 映画
 「おくりびと」がアカデミー賞外国語部門賞を受賞した。日本の映画がアメリカで認められ、広く世界の人に見てもらえるのは素晴らしいことだ。制作に携わった人達におめでとうそしてありがとう。
 私はまだこの映画を見ていない。ただ本木雅弘がなにか光るものを持っていることは「しこふんじゃった」を見た時に気付いていた。眼が違う。本物の眼をしている。いずれ外国映画に出演し、世界に知られる本木になるだろう。
 死に近しい仕事をしているので、映画を見る前にあらすじを読んで、少し思ったことを書いてみたい。
 死は誰にも等しく必ず訪れる。多くの人を看取って、死には消滅より停止終了という印象を持っている。永遠の不在という絶対の存在。拒絶と受容の暗黒と静寂。
 それは生きている側の者の感得するもので、死は生きている者にはわからない理解を超えた現象だ。だから生きていることが、そしてどのように生きていくかが、何より大切でかけがえのないことだと思えてくる。
 どうも現実には、死への恐怖や死に対する不安から、さまざまな悪事や不具合が生まれていると観測している。そうではなくて、死に気付くことで良く生き、美しく全うする道筋を見つけたいと願う。一度も死んだことがない町医者ごときが言うことではないが、良く生きれば良く死ねるように思う。
 何とも残念で酷いことだが、それは誰にも恵まれることではなく、生木が裂かれるようなことが起きる。理不尽不条理の世界にあって、果たしてそれでも良く生きようとするか。それは一人一人に問われているのだろう。
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寒さに震える梅の花

2009年02月24日 | 自然
 今朝通りかかると、十日ほど前に咲いた梅が昨日今日の冷たい雨と寒さにしぼんでいた。関東以西は何十年振りかの暖冬だったそうだが、気温の上がり下がりも平年以上ではないかと感ずる。生物にとっては厄介な現象で、春モードに切り替えたスイッチをまた冬モードに切り替えているのだろう。おじさんも早々と片づけられたパッチはどこだと騒いでいるかもしれない。
 馬鹿は死ななきゃ治らないと言うと語弊があるかもしれないが、個体の遺伝子はごく微量の変異を除いて一生変わらないわけで、遺伝子の変化と淘汰は何百世代を経ないと実現できない。人間は結構長生きなので、環境の変化が早いと遺伝子の変化が追いつかない。今までもそういう傾向はあったのだが、ここに来て環境の変化に社会の目まぐるしい変化が加わり、人間の変化が追いつかなくなっている。まあ個体の一生の中で起きる数十年単位の変化には科学技術の発達と規範の拡大解釈で、何とか身を守り辻褄を合わせてきたが、やがて追いつかなくなるのは必至と観測する。どうすればそれを切り抜けられるかは、勿論私の手に余る問題だし自分の生きている間は何とかなってゆくだろうと思ってしまうのだが、「東風吹かば匂いおこせよ梅の花、人類なしとて春な忘れそ」になっては困るなあ。
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