駅前糸脈

町医者をしながら世の中最前線の動きを感知、駅前から所見を発信。

友遠方より来たりて言う

2011年02月28日 | 医療

 H君は学生の時から温厚篤実の大人物で、今は五百床の総合病院の院長をしている。所謂、大学の抜擢人事で、院長含みで副院長で出向き3年後に院長になった。たまたまご夫婦で当地に来られる用があり、私が重用する料亭でご馳走をさせて頂いた。お互い外見は少し違ったが、45年前と変わらぬ心根に触れ、懐かしく楽しい時間を過ごすことができた。

 中でぽつり、彼が私を羨ましがる言葉が漏れたので、そうした感覚もあるのかと、ちょっと驚いた。それはH君が権力志向でなく、能力人望で院長になった人だからということもあると思うのだが、「Sのように地元に根付いて、信頼されて働いているのが羨ましい。自分は今の病院も六年目でそうした基盤もなく、医師集めや議会の答弁などをしなくてはならず、医者らしくないんだよ」。「いやあ、大病院の院長なんて、なりたくてもなれるもんじゃない、紳士のHに相応しいよ」。と答えたものの、改めて前線の臨床医は良い仕事なのかもしれないと思った。

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振り回されても

2011年02月26日 | 診療

 一昨日患者家族の心変わりで、当初入院予約のA病院を変更させられ大変と書いたが、昨日変更後のB病院が気に入り、ありがとうございましたと家族総出でお礼に来られた。お礼を言われると、こちらも胸の仕えが取れて、それは良かったと笑顔になってしまう。

 A病院のために弁明すれば、その機能設備医療スタッフはB病院と遜色なく、まあ好みというか相性の問題なのだ。N院長、気にされることはありません。

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半井小絵さん

2011年02月25日 | 人物、女

 半井小絵さんは半井と書いて何と読むのだろうと思ったのがきっかけで注目した気象予報士さんだ。長い手足で感じが良く、わかりやすい予報説明で高く評価している。女性気象予報士の嚆矢で、気象予報士の地位を確立した人のように思う。

 ところが先般、意趣漂う不倫報道がされ、眉を顰めていた。見出ししか見ないので詳しいことは知らない(中身を読んでも粗雑で針小棒大な作話と推測する)のだが、感じの良い報道ではない。お二人共否定されており、マスコミの嫌らしさが露呈した。それに、何があってもプライベイトなこと、大きなお世話だ。週刊誌記者の大半は目が濁っているのではないか。人の不幸は密の味が人間の本性のある部分を占めるにせよ、それに取り入るのが初心だったとは思えない。悪事、例えば権力に取り入り私利私欲を肥やす輩の仕業、を暴くというのなら多少の踏みこみも理解できなくはないのだが。

 半井さんを気象予報以外では見たことがない(文章は読んだことはある)が、その印象(利発で飾らず自由闊達)が全てで、恐らく本物もさほど違わぬとの感触がある。ブラウン管の人はそうしたものだ。だから 彼女の違いますの一言で十分、変わらぬ活躍を願う。

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振り回される

2011年02月24日 | 診療

 少し前までインフォームドコンセントという言葉が良く聞かれた。説明と同意と訳され、一世を風靡したが今はちょっと違ったのか飽きられたのか余り聞かれなくなった。

 その影響か今は患者さんないし、患者さんの家族の意向が重視され、それが最優先の傾向がある。医療側もちょっとどうかなと思っても逆らわないことが多くなったようだ。

 多くの家族にとって重病の経験は少なく、戸惑われるのはよく分かる。ではあるが、特に女性に多いのだが、迷うだけでは済まず、決めてから気が変わる方がおられるので疲れる。A病院での入院手術を希望されるので、それではと手続きに入ると翌日やっぱりおばさんにB病院の方が良いと言われたので、変更したいと申し出があり、「はあそうですか」と言うことが時々ある。「いいですよ」とは言うのだが、本当は平謝りで変えるので、あんまり嬉しくない。

 それが人間の心の動きで、医療側はそれに対応しなければならないのだろうが、「はいはい」。と言いながら後ろではそれなりの対価を払っていることは知って頂きたいと思う。

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事実を見つめる精神

2011年02月23日 | 小考

 昔、人間の命は地球より重いと言った政治家が居たが、それは一つの表現として機先を制したに過ぎなかろう。そう言われればなかなか反論しにくい。しかしまあ、それならいくつ地球があっても足りないということになってくる。それに現実にはどっちの命がなどということがあるのだ。どっちの命がなどと云うことは表だって論じられることはないが、そうした鬩ぎ合いは地球上で数限りなく、暗黙の落とし前が着いている。

 自分には無関係と思っている人も、自分の小さな欲望が、例えば安くて旨い海老フライや軽くて暖かいカシミアへの嗜好選択は積算されて大きな力となり、裏では厳しい血の滲む選択を生んでいるのに気付かないだけだ。いくつかのショックアブゾーバというかクッションを介しているために気付きにくいが、生きることは軋みと摩擦の上に成り立っている。

 医療費にも実は水面下ではそうした厳しい現実との鬩ぎ合いがある。癌はかっての死の宣告のような恐ろしい響きを失ったが、今でも圧倒的な怖さを持って患者心を追いつめる。抗がん剤の効果については、慶応大学の近藤さんという人が投げかけた疑問に十分な回答がされていないようだが、効果とは別に本当は費用の問題も論じられる必要がある。ところが命が掛かっているのに、費用とは何事だという心の動きがあって、表だってはなかなか議論が進んでいない。

 例えば百人の人に使用して十人の人に2年間の延命効果のある抗ガン剤の使用はいくらなら妥当かなどと言う議論はなかなか俎上に乗らない。不思議なことに人間はいざ自分がその立場になると皆自分は運の良い十人の方に入ると思うし、家族はとにかく出来ることをとなってしまう。こんなことを書くと脅されそうだが、1000円で助けられる命がアフリカには数限りないのに、日本では10%程度の確率で2年の延命に百万円近い費用(実質患者負担は十万程度)が使われている現実がある。効果だけでない希望を与えられるのだとか、お前がなったらどうするとか言われれば反論しにくいし、喩え従容として死ぬなどと言ってもなかなか信じてもらえないだろう。

 しかし事実を見つめる精神なくして、明日を切り開いて生き延びてゆくことは難しいのではないか。今の日本にはそうした精神が乏しいように思う。

 

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