駅前糸脈

町医者をしながら世の中最前線の動きを感知、駅前から所見を発信。

言うのは簡単でも

2015年08月31日 | 診療

           

 どこの業界にも講演や講義が好きな方が居られるだろうと想像する。医業界もご多分に漏れず、私はこうやって往診診療していますあるいは糖尿病の診療のコツを教えます・・・と話に来られる先生方がおられる。

 昔ほどは聞きに行かなくなったが、それでも月に二三回は新しい情報を仕入れに行く。当たり外れはあるが、何某かの勉強にはなる。自分は雑誌教科書で勉強しているから、それで十分と聞きに行かないのは良くない。直に会って生身の話を聞くと思い違いが訂正されるし、効率よく大切なポイントを理解できるからだ。

 中には東奔西走の様子に、講師の先生に本当にきちんと診療する暇があるんですかと半畳を入れたくなることもある。実際の診療では成る程とは思いながら、なかなかその通りにはできないことも多い。

 高齢化に伴い認知症の患者を見る機会が増えている。認知症には幻覚妄想がつきものだ。それを頭ごなしに「そんな馬鹿な」とか「そんなはずはない」と一蹴してはいけませんと雑誌や講演会で学んだので実践している。

 しかしこれは容易なことではない。当院のようにたかだか日に五、六人の認知症患者さんでさえ、妄想幻覚を成る程と聞いていたら、一般患者さんの何倍もの時間を取られて診療が停滞してしまう。「今日はどうしても先生に聞いて欲しくて来ました」と前回と同じ不思議な話を聞かせてくれる。「水道を捻ると下の階の人が私のことを噂しているのが聞こえるんです。やかましくて困るんです。先生何とかしてください」。「ああ、そうですか」はよいのだが「不思議ですねえ」と半ば相槌のような返事でも「先生、あたしを信用してない」と始まってしまい、ドクターストップならぬ看護師ストップで「はいはい又今度」と踵を返してもらうことになる。心苦しいところもあるが、堂々巡りはこうした患者さんの特徴で切り上げさせてもらわねばならない。

 専門家ではないし、研究する能力余裕もないが、どうもこうした幻想幻覚には微妙な違いがあるようだ。統合失調症では、同意を求められることは殆ど無く、否定してもさほど気にされない。レビー小体型では幻視が鮮明らしいのだが、過去形の報告が多いし、同意を求められることは少ない。どうも比較的しっかりされていた方が、骨折入院などのエピソードをきっかけに周辺症状が出現した所謂まだら惚け状態の時にこうした同意を求められる例が多いと思う。どこか自分でもおかしいと思っておられるのであろう。

 ご家族も「ああ、そうなの」「なるほど」と話を聞き続けるのも大変のようで、薬を求められることも多い。薬も微妙で漢方薬くらいがよい。抗精神病薬は効きすぎて?元気がなくなってしまうことがよくある。

 二人の大先輩に「聞くこと」と「何もしないこと」が内科の極意と教えられたが、日暮れて道遠しのようだ。

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[戦争のための平和論]

2015年08月30日 | 

                      

 書くまいと思えど政治の危うさかな。あっという間に、橋下大阪市長がいずれはやるだろうなと思っていた行動に出た。電光石火でやってもゆっくりやっても、信用できないことには変わりない。大阪の人はどう対応されるのだろう。

 安保法案の国会での審議をきちんとフォロウ出来ていないが、法案の理解が深まったかどうかに関心を持ち続けている。安保法案を考える参考になる本を見付けて読んだので紹介したい。「戦争のための平和論」(ちくま新書)、著者は早稲田大学教授の植木知可子さん。防衛庁防衛研究所主任研究員だった方で、海外での研究生活や外国でも講義の経験もあり、数多くの政治家を直に知っておられる。この本は安保法案に賛成反対というのではなく、戦争というものを多面的に解説することによって、具体的な平和の均衡を浮かび上がらせている。

 戦争は殺し合いなので、局地戦でも何千何万もの命が奪われてしまう。気に食わないからやっつけようなどと発砲していい訳がない。少なくとも、この本に書かれている程度の内容を国民全てが共有して、安保法案を考える必要があると思った。

 昼飯をカツカレーにするか、天麩羅蕎麦にするかを決めるのは難しいことではないし、特別な理屈や条件はいらない。誰も文句は言わない。しかし、安保法案のような法案の是非はとても簡単には決められない。決めるにはそれなりの知識と論考が必要だ。そのことを、もっと多くの人が気付かなくてはと思う。歴史的な事実もそれぞれの国によって認識の仕方が違い、何処が正しいなどとはとても簡単には言えない。他国との関係も、時空の広がりを持った重層的なものだ。若い人の中には親米的な日本が、昔アメリカと戦争していたなんて本当ですかと驚く子も少なくないと聞く。

 私はNHKの地上波とBSで植木さんに「戦争のための平和論」を六十分で十回講義して貰ったらと思う。見逃した人のために再放送もしたらいい。厳正に中立かどうかは分からない、内容も不十分な部分もあるだろう。それでも中立に近く適当な分量であるのは間違いない。最近使われている右とか左とかは空疎で底の浅い言葉で使いたくはないが、見解の相違するという意味で右も左も振り上げた拳を下ろして受講したらよいと思う。議論の基礎が出来る。

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人は石垣人は城

2015年08月29日 | 町医者診言

            

 先日、以前働いていた病院の院長と会食する機会があった。彼の方が少し年下で同窓ということもあって忌憚のない話をした。多くの病院が医師不足で悩んでおり、彼も人捜しに全国の大学の教授を訪ねて回わっているのだが、大学の医局も医師不足のところが殆どで、教授の力が出張病院の人事まで力が及ばない所もあり、百カ所回ってようやく一人ですよと、いささかお疲れのようであった。院長になったからには何某かの理想や意欲もあったと思うが、医師集めと経営で手一杯のようで、どうも勝手が違う様子だった。若い時はもう少し自分勝手というか強引なところのある男だったが、年のせいか院長職のせいか気を配り常識的なことを言うので内心変わるもんだと驚いた。

 二つの言葉に成る程、そうなんだと思った。一つは今の若い医師は優秀できちんと仕事をするということ、もう一つはこれは部長クラスのことだが、やはり人ですよという心底からのつぶやきだ。結局、人格識見共に優れた部長には自然部下が集まり、人格あるいは識見いずれかに難がある部長は何時までも一人部長で悪循環に陥っているということらしい。

 結局は人というのは医院のような零細小集団では身に染みていることなので、そうだろうなと思った。尤も、医業という利潤を求めない技能集団ですら、なかなかうまくゆかないのだから、権力にものを言わせ派閥益を追求する組織では人を得るのは難しいだろうなという連想も働いた。

 若い医師が優秀でよく働くというのは、回ってくる研修医からも感じられることで、これからの医師にはさほどの心配はなさそうだ。これには医学部や医局の教育システムの変化も大きく与っているだろう。一概に悪いとは言えないが、半世紀前の医局には無理偏に拳骨的なところもあった。

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衝撃があるのが不思議

2015年08月28日 | 政治経済

           

 今日は曇っていたのだが、数日前からに比べると蒸し暑く感じた。暑さがまたぶり返すのではと懸念している。

 橋下氏離党で地方議員に衝撃という見出しが出ている。本当だろうか?。橋下氏を支持あるいは心酔していたと思われる地方議員は一体何を見ていたのだろうかという気がする。

 橋下松井の大阪コンビの断片的な知識しかなく、会ったことも見たこともない私の様な者でも、今回柿沢未途議員に幹事長辞職を迫った時点で離脱への伏線を感じた。これを機に地域の仕事に専念と説明されているが、ではもし柿沢議員が辞職していたら、どうするつもりだったのだろうかという疑問が浮かび上がる。恐らく次の難問をぶち上げていただろう。柿沢議員の応援演説は迂闊で幹事長という仕事をわきまえたものではなかったが、辞職しなければ俺が辞めるという迫り方に離党を念頭に置いた布石を感じる。柿沢議員の能力将来性を評価するのならば、注意や叱責に留めるのが本来の姿勢のはずだからだ。要するに気に入らない奴とは一緒にやらないということなのだろうと読める。

 橋下松井の大阪コンビを支持されている地方議員にこの程度の洞察がなく、離党を青天の霹靂と驚いているとしたら、一体どこをどのように支持されていたのだろうかと思えてしまう。

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ダンクバールのこと

2015年08月27日 | 診療

                    

 台風の影響がどのようにあったのか知らないが、今朝も涼しかった。日差しがないせいもあるだろう。私の感覚ではもう九月だ。場所によっては今週から学校が始まっている地域もあるようだ。この陽気ならよく学びよく遊べるだろう。

 ダンクバールが果たして通用するドイツ語なのかどうか、多和田葉子さんに聞いてみたいところだが、古手の医師の間では患者に感謝されると言う意味で使われている。

 医者も人間、しかもいつも上手くゆくとは限らない仕事なので、診療行為が感謝されると嬉しいものだ。そうした病態の一つに尿閉というのがある。診断も難しくなく治療手技もやさしいのだが、患者さんの苦しみは相当なもので、中には七転八倒の苦しみと言われる方も居る。おしっこが尿道から出なくなり膀胱に溜まって、膀胱が破裂しそうに膨らんでしまう。風船が膨らんで破裂しそうになっているのと同じで状態なのだ。殆どが尿道が長く前立腺肥大のある男性に起こる。臨月とまでは行かないが、触診で下腹部が腫れているのがわかる。導尿の用意をしてと言えば、直ぐ看護師が一式用意してくれる。径数ミリのネラトンカテをペニスの先から二十センチばかり入れてやると尿がちょろちょろと出てくる。700mlから1000mlくらい溜まっていることが多い。混んでいる時は看護師に頼むこともある。嫌がらず、喜んでやってくれる。

 というのは辛そうな患者さんがみるみるほぐれて行くのが分かるからだ。「ああ、楽になった」。の一言を聞くのは嬉しい。看護師も医者に負けず、患者が良くなるのを目の当たりにするのが好きなのだ。

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