駅前糸脈

町医者をしながら世の中最前線の動きを感知、駅前から所見を発信。

とにもかくにも

2011年06月30日 | 身辺記

 雨が降ろうが槍が降ろうが放射能が降ろうが、命ある限り、とにかく生きてゆかねばならない。

 烏合の議員衆が愚策を弄そうとも、卑しい首相が総理の椅子に齧り付こうとも、マスコミが大本営に堕ちようとも、命ある限りとにかく生き延びてゆかねばならない。

 記憶にないが、いつか見た暗雲が空を覆う。七十五年前にはインターネットがなかった。今は幸いネットがある。玉石混交かもしれないが、溢れる自由な発言と粉飾のない誠実な情報に慰藉と希望を見出す。

 

 力及ばぬ淋しき夜にyouーtubeで倍賞千恵子の、ちあきなおみの・・歌声に聞き入る。何度も何度も繰り返し聞く。歌声は心に深く沈み、静かに優しく語りかけてくる。命ある限り、生きてゆこうと。

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人間の記憶

2011年06月29日 | 世の中

 

 人間の記憶は当てにならない。患者さんに問診する時、必ずいつから始まった症状かを聞く。今朝からとか一昨日からとかはっきり特定できる表現は非常に有り難い。大抵は、ちょっと前からとか暫く前からという表現が多く、何度も問い直さねばならない。何月何日からかが分かれば一番良いのだが、徐々に始まる症状もあり、数時間、半日、一日、二三日,五六日、一週間、二週間、一ヶ月、二三ヶ月、半年、一年、二年以上程度まで特定できればよしとする。中高年女性に多いのだが、何時だったかと聞かれ「孫が遊びに来た日」。とか「嫁が東京へ行った日」。などという返事をされるのも困る。

 これも中高年の女性に多いのだが、この前貰った軟膏を又頂戴と言われて、二三ヶ月遡っても記載がない。あれれと、どんどん遡ると一昨年だったりする。要するに多くの人は、自分標準の世界に住んでいて、変わりなき日常を生きていると一年前も一昨日と同じように感じられてしまうのだ。

 良好な記憶力や記銘力は正常な脳の働きの証なのだが、どうもこれが正常と思える人でもかなり変容してというか編集して記憶装置に直されている。だから三ヶ月三年前の記憶も、まして十年、二十年前の記憶など鮮明なうちにきちんと記録しておかないと変質することがしばしばある。

 これは記憶の一般的な印象なのだが、もう一つ日本人はと言いたいことがある。日本人は竹を割ったような性格が褒め言葉なのから分かるように、あっさり淡泊を好むようで何時までも執念深く粘着するのを好まない。確かにご近所づきあいの場合はあっさりが良いのだろうが、権力や大資本の失敗や失態に淡泊なのは、前進浄化を妨げていると思う。政府や東電が原発の事故情報を隠し、パニックを防ぐためと称して情報を全面公開しないのは、時間稼ぎの為だと気が付くべきだ。日本人は(例外もあるだろうが)怒っても恨んでも直ぐ忘れてしまう。怒りが鎮まった三ヶ月後や半年後に事実を出せば、嘘を付いたことにはならないし、糾弾の声も鎮まっているという作戦なのだ。

 何時までも孫子の代まで忘れず糾弾の声が緩まないとすれば、先送りで矛先をかわす作戦が効かないので、もっと早期から事実が明かになり、現時点で既に浜通りからの住民撤退も根本的で抜本的な形になっていただろう。隣近所のトラブルに寛容で淡泊なのは良いが、政府大資本の失敗過失にはアラブの執念(語弊があればお許しを)で対応したい。

 杜撰極まる年金処理と底抜け無責任体制を、君忘れる事なかれ。

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複合要因は防ぎにくいか

2011年06月28日 | 小験

 

  診療していて、今でも時々仕舞ったと思うことがある。それは殆ど二人がかり三人がかりで起こす先送りによるものだ。

 例えば、この一ヶ月で3kg痩せた。おかしい、食欲は?睡眠は?と聞いて行くと、毎晩何度も爺さんに起こされトイレに連れて行かねばならなくなったとか、職場が変わって気を遣うとか、ちょっとダイエットしているとか、色々もっともらしい理由が出てくる。

 そのせいかなとも思うのだが、取り敢えず糖は出ていないかなと痛くない尿検査をする。尿に異常がない場合、更に胃の検査や採血までするかどうか迷うことも多い。実際にそうした精神的あるいは人為的な理由で一時的に痩せる患者さんは多いし、胃の検査など負担の掛かる検査は嫌がる患者さんも多いからだ。狡いようだが嫌がれば先送りにしてしまう。強く内臓疾患を疑う場合は粘り強く説得するのだが、念のための場合は次でもよいかと譲ってしまう。そして、実際それで何事もなく済むことが多い。

 しかし年に一回くらいは、この前検査すれば良かったという症例がある。これも狡いと言われればそうかもしれないが、患者さんから責められることはないので、いくらか気が楽だ。「だから言ったでしょ」。と言う先輩が居たが私は言わないようにしている。言われた患者さんの目を憶えているからだ。そんなことを言っても、何一ついいことはない。

 間違いや失敗は一人で歩いて来ない。殆ど必ず、複数の要因が絡んでいる。だから仕方がないのではなく、だから防ぐチャンスはいくつもあるという捉え方も出来る。

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精神科の印象

2011年06月27日 | 医療

 

 精神科の講演を聴くことは少ないのだが、最新の鬱病の話というので聞きに行った。精神科は裾野が広く、内科にも精神科領域の患者さんが結構来られる、そのためにある程度の精神科的な知識が必要になる。全般性不安障害や鬱傾向の患者さんを、最初から全て精神科に紹介することは現実には不可能で、対応可能の範囲はある程度内科で診ざるを得ない。

 精神科の講義というのは独特で、わかりやすいようでわかりにくい。わかったようでわからない。講師の先生の話を聞いていると、失礼ながら医学の講義とは思えない、文学的な表現というか、いらいら、不安、心配、自責の念、憂鬱な気分とかが出てきて、わかったような気になるのだが、家に帰って思い返すと曖昧模糊として、あれどういうことだったかなと心許ない理解になってしまうことが多い。

 わかったようでわかりにくいのは講義内容ばかりでなく、精神科医そのものも失礼ながらわかりにくい。講演会の後の懇親会も、いつもの内科の会とは雰囲気ががらりと変わり、芸術家のようなというか評論家ようなというか独特の雰囲気の方が多く、場違いなところに紛れ込んだ感じがして、つい顔なじみの内科医で片隅に集まって、「なんだか、よくわかんなかったねえ」。などと話すことになってしまう。

 診療科によって独特の雰囲気があるというのは本当で、別に精神科だけが内科と違うというわけではないのだが、ほとんどの医師に精神科はどうも医学として特別という感覚がつきまとう。それは勿論精神科医のせいではなく、精神などというだいそれたものを対象にしている診療科のせいだろうと思う。 

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わしゃ知らん、刑事コロンボ

2011年06月26日 | 人物、男

 

 刑事コロンボを演じたピーターフォークが亡くなった。視聴者には犯人がわかっているのだが、よれよれコートでポンコツのプジョーを乗り回し、とても辣腕刑事 (実際には警部補)に見えないコロンボが、とぼけたように見えながら鋭く、そしてのんびりしているようで執拗に矛盾を嗅ぎだし、動かぬ証拠を暴き出してゆくのを楽しんだ。なるほどと感心した捜査謎解き手法がいくつか記憶にあるが、絵に自分の指紋を残した機転(二枚のドガの絵)が最も鮮やかに印象に残っている。

 ピーターフォークは小柄だが存在感があり、義眼と締まった顔立ちが個性的で、粘り強い上に実は鋭い閃きを見せる役柄にぴったりだった。

 吹き替えの小池朝雄の声としゃべりが絶妙で、本物よりも雰囲気が出ていた。私は吹き替えはどこか微かに不自然で好まないのだが、コロンボの小池氏には脱帽で、日本語のわかるアメリカ人の意見を聞いてみたいと思うくらいだ、「いやほんと、小池さんの方がいい」。と言うのではないか。

 さて10mの彼方からどうしてそこに甘い物があるのがわかるのか、時々我が家に小さき侵入者達が現れる。隊列を作り、次から次とやってくる。台所や居間で金切り声が上がり、うちのかみさんは「あなたが、***、***」と濡れ衣を着せてくれるが、わしゃ知らん。証拠も何も、最初から犯人を決めてかかり、しかも反論を許さないなんて、コロンボの爪の垢を煎じて飲ませたい。

 

 

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