駅前糸脈

町医者をしながら世の中最前線の動きを感知、駅前から所見を発信。

謙虚真摯に反省できれば

2019年05月19日 | 町医者診言

                 

 

 国会論戦ではしばしば聞かれたこととすれ違う答弁がされる。まともに答えると不利だからはぐらかすのだろう。常識あるいは道徳で正しいことと勝負や利害は必ずしも一致しないし、本音と建て前を使い分ける日本ではこうした現象が起こりやすいのかもしれない。勿論、答弁する政治家の性格もおおいに関係する。

 こうした論点ずらしが政治家の得意技?としても、丸山穂高議員が言論の自由を持ち出したのには呆れる。勿論、言論は自由でなくてはならず戦争で北方領土を取り返せと居酒屋でおっさんが言うのは自由だが、国会議員が言えば国益を損ね責任が問われる。それだけの話だ。責任が問われると言うよりは幼稚で国会議員の資格が疑われるといった方が良いかもしれない。議員辞職勧告決議案が所属する維新から出るのは奇妙に感ずるが、元々問題児と思われていたかもしれない。

 政治家にとって言葉がいかに大切なものかが分かっていない。国会議員という立場と仕事を理解していない。何で俺だけ、AだってBだってと言い張る人は、良い臨床医にはなれない。医者に限らないだろう、自分の間違いと責任を転嫁する人に良い仕事はできない。丸山穂高議員はまだ若い、どうもこの決議案方式には違和感を覚えるが、自分の至らなさを認めて謙虚真摯に反省すれば、出直すことが出来ると申し上げたい。人間は変わるのは難しいけれども、変われないわけではない、学んで成長することが出来る。

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CHONが握る鍵

2019年05月18日 | 世界

        

 

 地球温暖化がだんだん忘れられていくようで気がかりだ。トランプを筆頭に自分の都合の良いように事実を曲げたり脚色して違う印象を与えようとする政治家が蔓延っている。政治とはそういうものと言われてしまうと返答が難しいのだが。五十年後の孫まではともかく二十五年後の子供の時代までを考えているかどうかが、政治判断優劣の分かれ目と思う。トランプ安倍系統はせいぜい二、三年先のことしか頭にないように見える。消費税延期、衆参同時選挙は高々二か月先のことだが、うんともすんとも言わないのが安倍式である。漢字は読めなくても憲法歴史に疎くても、政治策略においては抜きんでた才能を持っておられるのだ。そしてそれがしばしば有効なのが政治の世界らしい。

 CHONというのは炭素水素酸素窒素のことなのだが、これをうまく科学的に副作用なく利用することが、人類が生き延びる重要な科学的課題だと見ている。がんの免疫療法も悪くはないが、それよりも物理化学、なかんずく化学の研究に力を入れる必要があると思う。CO2を固定利用し尽くすエネルギー獲得法、プラスチック再利用など、人類が生き延びてゆくための研究費は十分か、有能な人材が研究しやすい環境は整っているだろうか。政治家はそういうことにも頭を使ってほしい。

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シードルと聞いて

2019年05月17日 | 小験

    

 

 シードルが日本で飲まれ始めているという記事を見た。へえ-と思った。直ぐ凱旋門のラヴィックを思い出した。恥ずかしながら飲んだことはあるかもしれないが、味の記憶がない。ラヴィックが飲んでいたカルヴァドスよりもアルコール分は低いので、私でも愛飲できるかもしれない。なんでもブームになると猫も杓子もになる日本なので、もう少し待っていると当地でもシードルを飲ませる店が出てくるだろう。やはりブルターニュ地方の料理が合うのだろうか。何となく和食にも合いそうな予感がする。きっとどこかで合う料理の開発に余念がない御仁が数名は居るはずだ。前菜やひょっとしてデザートにも合うと予言しておこう。

 昨日、NTTの本物と称する二人ずれが電話機を交換しなさいとやってきた。NTTを語る妙な業者が一杯いてご迷惑をおかけしていますというのだが、なんだか自称本物も九割方信じたのだが、100%本物の感じがしない。確かに電話機は十五年ほど使っており旧いのだが全く不具合はなく、どうして変える必要あるのかと聞くと、故障するともう交換部品を作っていないと来た。それなら壊れた時に変えるよというと、それでは時間が掛かりお客様にご迷惑が掛かりますという。どうも100%信用する気になれない。今日は忙しいので検討しておくからまた後日と帰ってもらったのだが、五月はキャンペーン中でどうのこうのとしつこかった。

 家電もそういうところがあるらしいが、心電図など電子機器系統の医療機器は壊れにくいので、回転が悪く薬や試薬のように売れずメーカーは困っているようだ。そのためにメインテナンスや新機能機器のキャンペーンで売り上げを伸ばす作戦に出てきている。銀行なども収入が減ってあの手この手で金融商品などを売り込みに来るようになった。残念ながら家のかみさんは断る名人で、院長向け?に一寸可愛い販売員を差し向けてもケンモホロロで泣き顔で引き下がっているようだ。

 一体こうした販売方法がどこまで本当に顧客のことを考えているのか、髪の毛二三本疑っている。

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飴玉人たち

2019年05月16日 | 診療

                 

 

 五月晴れの下を出勤してきた。朝夕は暑くなくちょうどよい気温で庭先の花や緑が美しい。一口に緑といっても様々なグラデーションがあり微妙な違いが目を楽しませる。

 飴玉といえば子供のおやつで主役ではないが駄菓子屋の欠かせぬ定番だった。最近は駄菓子屋もなくガキ大将も居なくなり、見かけなくなったと思っていたのだが、思わぬ愛好者の出現でまだまだマートやスーパーで売られているらしい。コンビニにもあるかもしれない。どうして飴玉の話になるかというと、後期高齢の患者さんの中には飴玉中毒の人がいるからだ。

「先生、飴玉いくつまでならいいかね」と聞かれることがある。医学的にいくつまでなどと教科書に書いてあるわけではないが、「まあ六個くらいかな、多くても一日十個まで」などと答えている。糖尿病の人には三個までなどと厳しめにしている。勿論、これは目安で食事に差し支えないように、口寂しさを紛らわす程度ならと答えているのだが、聞くお婆さんも隠れて食べて妻に叱られているお爺さんも、一日十個ではおさまらない。一袋食べてしまうのだ。

「お爺さんは歯がいいからがりがり噛んでしまうんですよ」との報告に私に背を向けながら

「ミルク飴だからいいんだ」と、捨て台詞を残して診察室を出て行ってしまう。

「私は買わないようにしているんですよ、自分で買ってきちゃうんですよ」。と告げ口のような報告を受ける。

 人間の嗜好というものは不思議なもので、人さまざまな癖というか習性があり、いつの間にか杖のように生活に欠かせないものになってしまう。診察室で飴玉論争もなんだか大人げないような気がするのだが、私を懐柔しようというのかお友達の印か、先生もどうぞなどと飴玉一個を置いてゆく婆さんもいる。

 そういう私も引き出しのチョコレート玉を診察の合間に舐めている。患者さんの愚痴もとい訴えを聞くと疲れるので?。しかしこれが後を引いて、三日で一袋がなくなってしまう。

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ハムラビ法典は生きている

2019年05月15日 | 小考

                   

 

 ダーウインの進化論はそれこそ淘汰に勝ち残り、いくつかの科学的な根拠が示されているようだが、では人間が三千年でどれだけ進化したかは甚だ疑問である。確かに三千年でなく僅か三百年でも科学技術の進歩には目を見張るものがあるけれども、人間は三百年ではちっとも、三千年でも大して否殆ど進化していないように見える。応仁の乱の諍いはそのまま永田町の諍いだし、ハムラビ法典は今も生きている気がする。

 ハムラビ法典の「目には目を」は私の情動を騒がせる。犬畜生に劣るといっては犬畜生に失礼かもしれんが、心愛ちゃん虐待の父親には同じ思いをさせてやりたい。真夜中に叩き起こして氷水をぶっかける人を募れば長蛇の列だろう。私も列に加わりたい。

 どこからかそういう憤りが湧いてくるというのは正直な告白だ。

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邯鄲の夢?

2019年05月14日 | 

     

 

 今朝は雨がしとしと降っていた。既に道路は濡れ夜半から雨だったと見える。木々の緑が濡れて一層色濃く目に映った。

 この数日夢をよく見る、五臓が疲れているのだろう。明け方?見た夢は少し憶えている。旧い町並で京都や九分に似ていた。なんとなく祭りの雰囲気が漂っていた。小腹が空いたので昼飯でもと店に入ったのだが一階は何か土産物の売店だけのようで二階上がるとカウンターのようなものあり暖簾がかかり、おっさんがぽつねんと座っている。何の店だろうと不思議な気がしたが、いらっしゃいませという訳でもないので三階に登るとやはり同じような暖簾とちょっと若めの男が所在無げに座って一瞥をくれるだけで、四階に登ると今度はやや派手な暖簾でおばさんが座っておりにやりとした。何かを焼売を茹でているような香りがしてちょっと食指が動いたが、まあ一番上までと五階に上がると饂飩と書いた暖簾がかかりお婆さんが座っていた。さしてお腹は空いていないので饂飩でいいやと入ろうとすると、何か合図したのか若い娘が出てきて奥へ案内してくれた、中は意外に広く七八部屋はありそうな奥行きだった。窓からなだらかな山々が見える六畳ほどの部屋に通された、眼下に広い川がゆったりと流れている。お茶が運ばれ何だか分からぬことを言われた気がする。多分饂飩で良いかと言われたのだろうと頷いたまでは憶えているのだが、その後の記憶がない。何となく日本ではないような気がするが、確か饂飩と書いてあったようだ。

 夢は何かまだまだよくわかっていない?し、過剰な解釈が加えられてきたようにも思う。自分は愛読する野田知祐さんや川本三郎さんのような一人旅はしたことがなく、一体何だったんだろう、何か旨いものを食いはぐれた気分だけが残っている。

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歴史に学ぶ

2019年05月13日 | 小考

        

 

 差はあっても物事を理解したいという欲求は誰にもあるだろう。好奇心では人後に落ちず、幅広くあれこれと文理を跨いで興味を持ち手を出してきたが、少しづつ収斂して最後に人間てなんだろうという興味が残るような気がしている。

 人間を理解するには広く深い知識と虚心坦懐な洞察が必要で、自分の器次第という面もあるだろうが、田辺聖子さんが言われたように知識や脳力とは別な力もありそうで、終わりまで考えてゆくことになると思う。

 歴史を知らなければ人間は理解できないし、それこそ政治から会社経営おそらく科学研究も一流の仕事はできないのは間違いない。しかるにこの頃思うのは歴史を知るにつれ、政治的には人間は歴史から殆ど何も学ばないということだ。勿論、全く学ばないわけではないが、殆ど学ばない、これは間違いないと思う。敬愛する半藤一利さんのお仕事に棹差すようで気が引けるが、最近そう思い始めている。尤も少しは学ぶと前向きにとらえることもできるだろうが、個人の一生の内にという視点ではそれは僅かなものに思える。

 私のユダヤ人理解は偏見に毒されているかもしれないが、歴史に学ばない人間の愚行の中で自分達だけがどう有利に生き延びるかという知恵に長けている人達に見える。嫌われるのは分かるが、学ぶところもあるように思う。

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引き際を教えるもの

2019年05月12日 | 身辺記

     


 いつの間にか初夏、緑が目に染みる季節になった。一ヶ月ぶりに山小屋で仲間とミーティング、小屋の周りの草を刈って、部屋の中を少し片付けた。一寸小屋が傷んできているので、次回修理する話になったのだが、G氏が居ないので誰が実際に手を動かすか、宿題が残った。三人寄れば文殊の知恵ではないが、七人で動いていたのだが、G氏が亡くなりH氏が八十を過ぎて来られなくなったので五人になってしまった。今までは、それぞれの才能で大抵のことは出来てきたのだが、G氏に変わって器用に工具を使いこなす人が居なくなってしまった。F氏は知識は豊富なのだが、役職が長く実働から遠ざかっていたので、口は出ても手足の動きは悪い。新しい仲間を入れたいが、友人というものはそう簡単には作れない。旧知で比較的若く体力のある七十前のD氏を勧誘している。

 どうも年代のせいか、病気の話とリタイヤ後の生活の話が多い。帰り道、自分もそろそろ仕事を減らして引退を考えなければならないと考えた。数年前までは年齢より若く見えるし体力もある気がしていたのだが、この一年で急に年を取った気がする。引退の時期は脳と身体が教えてくれる。

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忘れず科学的に対策を

2019年05月11日 | 町医者診言

              

 

 このところ歩行者を巻き込む暴走事故が多発している。痛ましい犠牲者と遺族の方の為にも、何とかしてこれを教訓に事故防止対策を立てねばならない。忘れるのが得意なのは時には好都合のことはあっても、しばしば教訓を生かせないで終わるのは問題で、この痛みと苦しみを三年風化させないでマスコミが繰り返し取り上げてくれれば、いくつかの付け焼刃でない改善ができると思う。

 右折に問題があるのは運転する人であれば誰もが気付いているはずだ。交差点によって時差式、右折信号式、黄色信号のみとさまざまで、地元の人でないと迷ってしまう。迷っていると後ろから早く動けとクラクションを鳴らされて、不快な目に会ったりする。どうやって右折方式を決めているのか知らないが、あまり科学的ではないのではと推測する。とにかくわかりやすいこと合理的であることが一番で、三人寄れば文殊の知恵と思う。道路交通法の決め方をよく知らないが、おそらく一つの役所で決めているだろう。口うるさい一般人や、科学者は入っていないと推測する。

 認知症の運転も問題で、いつか書いたかもしれないが、この人にはもう運転は無理ですと意見書を提出したら逆恨みで嫌がらせの電話が入ったことがある。警察に困るじゃないかと電話したら、若い婦警が出て「今度あったら連絡してください。対処しますから」と請け合ってくれたが、何だか調子がよく安請け合いの感じがした。患者さんにはいろいろな人が居るから、こういうことがあると駄目出しをするのに慎重になる。無理と思っても判断が付かないからと専門医に回して、折角受けた専門医の負担を減らすための一般医研修が生きなくなってしまう。

 こういう時には世論後押しに効果があると思う。

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緊箍帯

2019年05月10日 | 診療

     

 

 緊箍呪というのは西遊記で三蔵法師が唱える呪文で、これを唱えると孫悟空の頭に嵌まった輪が締まり、頭の痛さに耐えられない孫悟空は許してくださいと三蔵法師の言いつけを守ることになる。この緊箍呪に似せた緊箍帯というものが出来ないものだろうかと思うことがある。つまり例えば血糖が250mg/dlを越えたり腹囲が100㎝を越えるとピーと言う警報音が鳴るような腹帯だ。

 昭和には死刑の宣告に等しかった癌も平成の終わりには五年生存率も上がり死病ではなくなった。これは主に診断治療の進歩に依るのだが、メタボの方は色々診断治療が進歩しても、落ちこぼれる患者さんも多く、最前線では苦戦することもしばしばだ。糖尿病や脂質異常症には癌ほど人を恐れさせる力はなく、患者さんによっては飯は旨いしどこも痛くないと、医師や看護師の食べ過ぎないようにを馬耳東風に聞き流す方が居られる。勿論、言葉だけでは不十分なので食品見本を見せながらこれくらいとか参考献立もお渡ししているだが、明日からとか今日は例外が何年も続いてしまうようだ。確かにいったん大台に乗ると、さほど食べなくてもそれが維持できるようで、そんなに食べていないと不満そうな患者さんも多い。

 そんなに生活指導が守れずうるさく感じられるなら、いっそ医者に来なければ良いのにと思うことも時々あるのだが、孫が遊びに来たから旅行に行ったから食事会があったからと言い訳を並べられながら通院は辞められない。まるで通院が免罪符と思っておられるようだ。「努力しています」「結果を出してください」の遣り取りが何年も繰り返される。さすがに石の上にも三年で、三年もすると多少は効果があることは多い。しかし不動の七十キロのおばさんや100キロのおじさんも居られる。五年を超えるとつい注意する方も根負けして増えなければいいですと言うようになったりする。

 そこで緊箍帯などというものが出来ないかと夢想してしまう。尤も折角できても、今日は締めないでおこうという患者さんも多そうで管理が難しそうだ。そして極めて遺憾ながら真っ先に緊箍帯が必要なのは私自身かもしれない。食いしん坊の両親から生まれ、ついもう一品は遺伝子のせいにしているのだが。

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