駅前糸脈

町医者をしながら世の中最前線の動きを感知、駅前から所見を発信。

二つ星で働いていたとしても

2016年02月29日 | 旨い物

        

 雛には希なシェフが二つ星で働いていたことがあるというレストランが近隣に出来た。ミシュランの星をさほど信用していないが、噂を聞いてどんなものかと、わざわざ車で出掛けた。開店二ヶ月ということだが、ほぼ満席でランチタイムのせいか男は二人あとは女性客ばかりだった。

 最近の流行か自分の名前を店名にしている。入り口に修行した店のシェフではなく自分の写真が飾ってある。なんだか勘違いをしているようだ。一番安い3500円のコースを頼んだのだが、先ずお飲み物をというメニューの最低価格が600円(箪なる水)で、要らないとも言いにくく700円のグレープフルーツジュースにした。確かに前菜とメイン料理は趣向を凝らしてあり美味しかったのだが、デザートは小さな焼き菓子とシャーベットで大したことはなかった。二人で一万円で数百円のお釣り、ちょっと高いように感じた。

 多くの料理評論家とかなりの料理雑誌のせいか、時々有名になること本や雑誌に載ることがステイタスで、修行経歴を誇る料理人が居られるようだが、店の雰囲気と料理は一歩店に入り一皿口にすれば分かるわけで、私にはさほどの意味はない。勿論、成る程と思うこともあるのだが、お値段に見合うということで、又来ようと思うかとは別のことだ。

 私の判断基準は単純で又来ようと思うかどうかが全てだ。そうやって、少しづつお気に入りを増やしてきた。ブログで教えて戴いた店も二三ある。

 この新しい店が生き残り、磨きが掛かってゆくか微妙だと思う。一年後、もう一度訪れてみよう。

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医療でのリエゾンの大切さ

2016年02月28日 | 診療

        

 街中に医院を開いてもうすぐ27年目になる。二十年以上続けて診ている患者さんも多い。そうした患者さんの中には通院出来なくなり、やがて寝たきりになって家で亡くなられる方もおられる。

 こうした場合は、高齢でもあるし患者さん家族とも気心が知れているので、自然に在宅で看取ることが出来る。しかし、癌の末期で、つい先日まで総合病院で抗がん剤治療(通院あるいは入院)をしていたのだが、効果がなく弱ってこられ自宅での看取りを希望される場合には、紆余曲折があることも少なからずある。

 先ず抗がん剤が効かなくなり死期が迫っていることを、ご本人は恐らくなんとなく分かっておられるのだろうが、それを家に帰りたいあるいはもう病院は嫌としか表現されないので、結局家族が斟酌してあの時ああ言っていたからとか病院を嫌がるのだからと病院の主治医と相談して、在宅でお願いしますと紹介されてくる。送ってこられる総合病院の医師とは親しい場合が多いし少なくとも顔見知りなので、医学的な受け渡しには問題は少ないのだが、見知らぬ家族や患者さんとの出会いには戸惑うことも多い。

 先ず患者さんは相当弱っておられ、返事は出来るが会話は難しく、歩けなくなっていることが多い。そうした場合一週間もすると食べ物が喉を通らなくなり、帰ってきて十日二週間で亡くなって仕舞う。数回しか往診診察できていないこともあり、家族とさほど親しくなれず、まして患者さんとは碌に話したこともないわけで、どうしても不全感が残る。やはり、一ヶ月ないとこうした終わり方で良かったと見送ることは難しい。

 緩和ケアの医師は別にして、癌と闘っている医師はどうしても死を治療する心構えが不十分で、全く悪気はないのだが、もう打つ手がないのでと店じまいをされてしまう。看取ろうとする医師医療者との間のリエゾンが欠けているのだ。恐らく何とかして一日でも長くと戦う姿勢と、槍や矛を収め静かに見送ろうとする姿勢の共存は難しいのだろうと思う。

市井で患者の生涯と付きあっている臨床医としては、もう少し早く避けられない死を視野に入れた医療をと考えてしまう。今はかなり改善されてきたが、総合病院と街中の医院は対等な関係が築きにくかった事情もある。世の中が変わって来ているので、もう少し積極的に発言しようと考えている。

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立ち読みで覗き見る世界

2016年02月27日 | 

        

 昨夜は勉強会の前に20分ほど時間があったのでこれ幸いと本屋に寄った。

 又吉直樹は芸を見たことはないのだが、トーク番組?で何度かちらっと見たことがあり、その異形と言うべき風貌に強い印象を持っていたので、芥川賞を受賞した時直ぐあの男だと分かった。漫才師で芥川作家というのは不思議な組み合わせの感じがしたが、どちらかというと漫才師であることの方が、芸を見ていないのに言い過ぎかも知れない、合っていないのではないかと思う。

 又吉のはしがきを数ページ読んだだけだが、凄いというか異能というか言葉感覚に優れている人なのが分かった。成る程こうした感覚と読書で蓄積した言語力で作品を生み出したのだろうと納得した。ちなみに作品は一つも読んでいない。名は体を表すと言うが、体に内容が表れるとも言えそうで、異形の外見は秘めた言語能力を表していると腑に落ちた。

 様々な意見はあるだろうが私は編集長が代わった文藝春秋に新たな息吹と活力を感じている。巻頭エッセイに立花隆は微妙だが、象徴的でもある。今月号で立花はジャーナリストの真骨頂を発揮し、日本の政治ははちゃめちゃで面白いと忌憚のない解説をしている。私はこんなに本当のこと?を書いてもいいのかなと思ったのだが、NHKではないので圧力が掛からないらしく、日本国の運転手に大いなる疑問を呈している。尤も、私はジャーナリストではないのでそれが面白いとは感じない。

 いつも沢山本を買っているので二十分ほどの立ち読みは問題ないだろう。荷物になるので本を買うのは我慢した。

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武蔵の言葉を考える

2016年02月26日 | 診療

             

 古今東西、真剣勝負で最も強かったのではないかと言われる剣豪宮本武蔵の言葉に「我事において後悔せず」というのが伝えられている。額面通り素直に後悔することがなかったのから、類推で全力を尽くしたから後悔しないことにしていたまでいろいろな解釈がある。

 ちょっと意地悪くわざわざこうした言葉を残すとは武蔵というのはよほど後悔の多い人だったに違いないというのまである。

 果たしてこの言葉をどう受け取ればよいのだろうか。確かなことは凡人が達人の言葉を解釈するのは容易ではないということだろう。別の言い方をすればあまり参考にならないとも言える。武蔵には吉川武蔵のイメージが付きまとうが、実像はちょっと違った気がする。達人は日常では達人ではないことが多いと思うのだが、その辺りは脚色されやすい。

 なんで後悔などと書いたかというと、何十年患者さんを診ていてもああすれば良かったという後悔があるからだ。反省は力を付けるのに必須で、反省しない医師は上達しないが、後悔というのは反省とは微妙に違う。後悔が臨床医として上達するのに必須がどうか分からないが、並みの医者の臨床には後悔が付きまとう。

 一昨昨日亡くなったHさん、先週末に家族に集まるように言っておけばよかった。

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合流できるか民主維新

2016年02月25日 | 政治経済

          

 まだ各地で雪が降っているようだが、春の息吹は眼に清かで朝の光は春を告げている。今年は逃げる二月に小さな尻尾が付いている。おまけと言っては29日に悪いが、なんかちょっと得した気分もする。

 民主と維新が合流出来そうだとの報道がある。巨大与党の自民党に対抗するには野党が結束するしか方法はないだろう。自民党の内部には色々な意見があったのだが、権力という引力でまとまってきた。自民党は内部に多様な意見を持つことで、エネルギーを蓄え新陳代謝が進み長持ちしてきた政党なのだが、ここに来て実力のない肯き若年議員が増えている。首相が改憲、復古の煙幕にしてきた経済の躓きは明らかで、戦略の綻びが見えてきている。

 野党が結束すれば一矢を報いることが出来る状況だ。民主党は何とか岡田代表がまとめきったように見える。維新の議員が松野党首の意向に従わないとすれば、我が儘な烏合の衆ということになる。

 党名を変えることは戦略的にも極めて重要で、新しい党名に注目している。民主維新などという名前では駄目だ。本当の知恵者が居るだろうか、先ず党名でそれが分かると思う。

 個人的には岡田さんはイメージが暗いがまともで、ひ弱そうな松野さんも芯は丈夫だと見ている。戦略が物を言う政治なので、スタイリストを付けて、明るく力強いイメージを打ち出すことが重要と申し上げたい。

 特別に民主支持というわけではないが、安陪さんの独走を食い止める必要がある。自民支持の人の中にも鶴の一声ばかりで良いのだろうかという懸念の声がある。多様を受け入れ柔軟に動かなければ、不穏な世界を生き抜くことは難しいと歴史は教えている?気がする。

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