時空を超えて Beyond Time and Space

人生の断片から Fragmentary Notes in My Life 
   桑原靖夫のブログ

いかさま師物語(11):ゲームからギャンブルへ

2016年05月17日 | いかさま師物語

 
Cover
Arthur Flowers and anthony Curtis, The Art of Gambling Through the Ages, Las Vegas: Huntington Press, 2000




 最近,野球賭博、スポーツ選手が裏カジノに出入りし大損(?)など、ギャンブルにかかわる話題がメディアを賑わせている。断捨離作業の時の一冊が思い浮かんだ。ダンボール箱の「さようなら!」の一箱に入っていることは記憶していた。『歴史にみるギャンブルの美術』(上掲表紙)なる一書である。出版元はラスヴェガスにあり、なんとなくうさんくさいが、内容はきわめて真面目な美術史の書籍だ。人類史のこれまでを彩ってきたゲーム、ギャンブルの光景をそれぞれの時代の画家たちが、描き出した作品の小さな集積だ。それでもほぼ百人の画家たちの名と作品が挙げられている。


紀元前まで遡るギャンブルの歴史
 人類の歴史におけるゲーム、そしてギャンブリングの起源は、紀元前500年前  BC500 頃にまでさかのぼるといわれる。古代
ギリシャの壺に刻まれたダイス・ゲームらしきものに興じる2人の戦士アジャックスとアキレスの情景が描かれている。

Ajax and Achilles Playing Dice, c.530 B.C.
Exekias,
Museo Nazionale di villa Giulia, Rome 

最初は、誰かが思いついた暇つぶしのたぐい、単なる一場の遊びとしてのゲームが、賭け、賭博、ギャンブルの段階へ移行したのが、いつ頃からかは分からない。最初はきっと負けた側がビールやコーヒーをおごったことなどから生まれたのだろう。ギャンブルは人間の生活のかなり根源的部分から生まれたものだ。

 ギャンブル以前のゲーム
 さて、この書を手がかりに美術とギャンブルのつながりに少し立ち戻ろう。ゲームやギャンブルを描いた作品を見ていると、ひとつにはゲームの持つ本来的な楽しさ、娯楽性が前面に出た作品群がある。

  典型的な例が、幼い子供たちが楽しげに興じているダイスやカード遊びを描いた作品である。17世紀の画家ムリリョの「貧しい子供たちのダイスゲーム」がその一例だ。描かれている子供たちは、当時の多くがそうであったように、極貧で身につけている衣服もみずぼらしい。しかし、画家は純粋にダイスゲームを楽しむあどけない子供たちの表情を叙情的に描いている。歴史家の研究で、この遊びが当時アラビアから由来した「クラップス」Craps というゲームであることも今ではわかっている。こうした風俗画は、その時代の一齣を写し取り、今日に伝える貴重な情報源だ。



Bartolommeo Murillo, Small Beggars Playing Game of Dice, Alte Pinakothek, Munich, ca1650

 

 同時代の作品を見ても、純粋な遊び、楽しみが動機のゲームと、それが博打、ギャンブルの手段となっている光景が混在している。すでにこのブログでもおなじみの16、17世紀のカラヴァッジョやラ・トゥールの『いかさま師』は後者の流れを代表する圧巻の作品であることがわかる。本書でも最初に登場するのは、ラ・トゥールの「クラブのエースを持ついかさま師」だ。ゲームやギャンブルを題材にした作品にもさまざまな流れ、流行がある。画家たちも、過去やその時代の流行を研究し、それらからさまざまに学び取っていた。子供ばかりでなく、戯画化された豚や犬など動物たちが遊んでいる作品も少なくない。

ギャンブル性の兆し
 そうした画家たちの目がどこに向けられていたか。その一枚がカラヴァッジョや16世紀初頭の最も独創的な画家のひとり、オランダのルーカス・ファン・ライデン の作品「カードプレーヤー」である。カラヴァッジョや、ラ・トゥールのテーマが共有するギャンブルのいかがわしさ、猥雑さなどの怪しげな要因が忍び寄っている時代の空気を感じることができる。

多数の着飾った男女がすべて半身像で描かれるスタイルは、画面の次元を拡大し、次の時代へのひとつの道筋を示した革新だった。。総数8人という多くの男女が、それぞれの役割でプレーに参加している。テーブルの中心に位置する女性は女主人公のようであり、ゲームをとりしきっている。顔だちや衣装も整っており、いかがわしさや怪しさはあまり感じられない。しかし、よく見ると、女主人公の背後に立った女が指でサインのような合図をしていいるようだ。プレーヤーの間に微妙なやりとりが行われており、単なるゲームの域を脱し、ギャンブルの段階へと移行していることが明らかだ。この一枚の作品から多くの興味深い点を見出すことができる。とりわけ、`kibitzing`といわれるゲームをしている人々の背後で、あれこれ言ったり、怪しげなサインを出している見物人や取り巻きたちの姿は、すでにこの作品に描かれている。

Lucas van Leiden(1494-15339, The Card Players, c.1508
National Gallery of Art, Washington, D.C.

 

ギャンブルを題材とした作品には勝敗がつきものだ。ラ・トゥールの「占い師」のように、他の人に不幸が起きた時、それが周囲の関係者にいかなる心理的変化を生みだすかという、きわめて奥深い人間心理の根底に迫るような作品もある。

ゴヤ、セザンヌ、ピカソ、ドーミエ、ヴァン・ゴッホなどの著名な画家たちが、ゲームやギャンブルをしている情景をそれぞれのスタンスから作品として描いている。これは、ギャンブルという行為には人間の持つさまざまな本性が表れていることが画家たちの興味をかき立てていることが、背景にあるといえよう。

ゲーム・ギャンブルから見る時代の様相
 ブログで取り上げたことのある他の画家、セザンヌの『カード遊びをする人』なども含まれている。本書で表題と内容がやや異なるのは、作品が年代順ではなく、ランダムに配列されていることである。しかし、そのためにさまざまな想像の種が生まれる。原則、1ないし2作品が一ページに掲載されていて、来歴、画題の含意などが簡潔に記されている。見ているとあきることがない。

このブログでもこれまでその一端に触れているが、ギャンブルは美術史においてひとつの立派な(?)ジャンルを形成していることが分かる。この一風変わった書籍の序文を書いているルロイ・ナイマン LeRoy Neiman(1921-2012)は、知る人ぞ知るアメリカの表現派の画家である。本書の刊行後2年後に世を去っている。ネイマンの作品は鮮やかな原色が画面一杯乱れ飛ぶような、独特な作風で、運動選手、音楽師、カジノ風景などを描いてきた。ギャンブルの手段となっているのは、、カード、バックギャモン、ルーレット、競馬、ダイス(サイコロ)など、さまざまだ。

  本書にはネイマンの作品がかなり掲載されているが、下掲の作品はカジノのルーレット・ギャンブルで、ルーレットが回り出す直前、人々がそれぞれの思惑でチップを置いている場面を描いたものだ。さまざまな色が雑多に飛び散るような光景である。画家はそれをもって、現代社会の一断面としてのカジノの刹那的、荒涼として深みのない状況を描こうとしたのだろう。
 

LeRoy Neiman, The Green Table, 1972, Collection of the Artist
ルロイ・ネイマン「カジノ・緑色のテーブル」 

LeRoy Neiman, New York Stock Exchange, 1971,  Collection of the Artists
ルロイ・ネイマン「ニューヨーク株式取引所」

 これらの作品を見ていると、画家がギャンブルの光景を画題としている意味はきわめて多様であることが分かる。純粋にゲームの面白さに魅了された子供たちの情景や、暇をもてあました大人の遊びの光景から、人間の欲望の争いを決着しようとする手段として、表現されている場合、さらには享楽的、華美な極限に達した現代文明の断面としてのカジノ風景など、実に興味深い。 現代社会でITゲームに没頭している若者たちの姿は、画家たちの目にはどう映っているのだろうか。

さらに、 ネイマンは現代社会における投機的ギャンブルとして、株式投資もカジノの世界から遠くないと考えた。ニューヨーク証券取引所の荒涼としていながら、騒然とした状景が描かれている。そこで働く場立ちの人たちは、他人の資金を運用するという意味からも、最も迅速で統一性のない動きを見せている。現代世界の投機化、ギャンブル化はさらに進むとみられるが、後世にいかなる形で伝えられるだろうか。

 時の人、ドナルド・トランプ氏 Donald Trump、 日本ではまさに「トランプ」として知られるカードゲームの「切り札」の意味を持っている。その語源は、17世紀初期にTRIUMPHの変化した言葉として、同じ意味で使われたとされる(ODE+OSD)。政治もギャンブル化の色合いを深めているようだ。


 かくして、一時は「さようなら!」の箱に入ったこのユニークな美術書だが、再度眺めている間に新たな興味も深まり、「もうしばらくご滞在!」の床積みに戻ってしまった。断捨離のために残された時間も刻々と過ぎて行く。


 

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