ALQUIT DAYS

The Great End of Life is not Knowledge but Action.

馬鹿病気

2008年11月22日 | ノンジャンル
他人と自分とは違う。自分は特別な存在なのである。
これは誤りではないと思う。
ただ、この違いを上下で見るか、左右で見るか、また、
自分と同様、他人もまた特別な存在であることを認識するか
しないかで、中身は大きく変わってしまう。

上を見ればきりがない、下を見てもきりがない。
自分の立ち位置を認識するのに、他人と比較することは有効な
方法ではあるが、上を妬み粗探しをして落としめようと、
下を蔑み、馬鹿にしようと、自分の立ち位置が変わる
わけではない。
ところが、それが自分の位置を上げる事になると無意識に
勘違いしていると、自身の向上はありえない。

人は生まれながらに平等ではない。だからこそ、全ての人を
平等たらしめるものを求める。
それは神であっても仏であっても法であっても良い。
人が創造したものよりは、不変性、普遍性を有す法の方が
最も有効かもしれない。

ところで、毎日、ニュースで報じられる事件を見ている時、
それが自分とは直接の関わりがないことを前提に、
つまり対岸の火事として人は論評するが、同じ、人が起こす
事件である。自分が起こさないとは本当のところは
誰も言い切れるものではない。

ここでも自身の立ち位置の問題が出て、あんな馬鹿げたことは
自分は絶対にしないと人は思う。
なぜそんなことができるのか、考えられないと思うような
事件でも、起こしたのは人である。

様々な価値観、千差万別のものの感じ方、考え方を持つ人達が
共に社会生活をしている以上、ある程度の妥協をもって、
互いを認め合うことは必要不可欠な事である。
唯一、共通している価値観と言えば、生命の尊厳ということに
なるであろうが、あまりにもその尊厳性を軽視し、
ないがしろにしている事件が多いところを見ると、
生命よりも何か別の物質的なものに価値をより大きく
置いている世相が見えてくる。

命の尊さという言葉がなにかしら、実のない観念の枠に
押し込められ、声を上げて叫べば叫ぶほど虚しく響く世相で
あるとも言える。

どうも戦争という命の大量消費は、その体験者の中においては
生命の尊さについてギリギリの実感として認識させるものでは
あるけれども、実体験のないものが世代を重ねるごとに、
希薄になっていくようである。
再び認識を鮮明に、確固たるものにするには、現実的には
実体験しかないのではあるが、再び戦争を体験するような愚を
すべきではないことは世界レベルでの共通の認識であり、
願望でもある。
その要諦は、いかに過去の実体験を風化させず、
新たな世代へと継承していくかである。

考えれば、たかだか100年も経てば、現在地上に生きる人の
ほとんどはこの世にいない。
人間のみが、何千年にもわたる歴史に学び、また、自身の
存在しえない未来にまで理想を描くことができる。
権利だとか義務だとか殊更に定義づけをしなくとも、
人が人として生を享けた以上、その命を生き切ることが出来る
未来であって欲しいと、祈りにも似た想いで願うのである。

さて、カミサンに言わせれば、この依存症という病気は
「馬鹿病気」らしい。
人一倍頑張って勉強し、大学まで出ていながら、
お酒の飲みすぎが心にも身体にも良くないという、
この単純明快な事がわからずに、依存症となり、身体を壊し、
心を壊し、廃人同然となりかけた私の馬鹿馬鹿しさと愚かさを、
一言で表している。
誰しも、自分がアル中になどなるわけがないと思っていた
であろうし、第一、アル中自体を軽蔑し、馬鹿にし、憐れんで
いたのではないか。

それこそ他人事であったことが、自身のこととなって
しまったのである。飲酒運転、事故、ひき逃げ、暴力、殺人、
自殺など、まるで他人事であったニュースに直接関わり合いと
なってしまうケースは数えきれない。
なんて馬鹿な事をと言っていたことを自分がし、考えられないと
言っていたことを自分がしている。他人も自分も同じ人間で
あることをこの病気になったものは肝に銘じるべきである。
馬鹿にされても、軽蔑されても仕方なく、馬鹿にしたり
軽蔑したり出来るような分際ではない。

普通の病気は、その病人のみの苦しみであるが、この病気は
周りを巻き込んで苦しめる。これほど厄介で、性質の悪い
病気はないのである。
回復の道を歩むなら、せめて謙虚に自身の一歩一歩の前進を
心掛け、余裕ができてくれば、人の話を聞く、人を励ます、
応援する、共に歩こうと手を差し延べるという行動の中で、
自らの命と同様、人の命を尊いものとして改めて認識し、
自覚していくべきであろう。

「馬鹿病気」である本人が、他人を馬鹿にし、批判し、
中傷するなど、笑止千万である。
自分はあれほどひどくない、まだ全然ましだなどと思っている
自分の愚かさを知るべきである。
もう充分、「あれほどひどく」なったのであり、目くそが
鼻くそと競い合うようなものである。

大切な事は、如何に自身の惨めな思いと、立ち直らんとした時の
初心を風化させないかということなのである。


鏡である例会

2008年11月16日 | ノンジャンル
今日は院内例会の日。
いつも無意識に、指名されたら何の話をしようかと病院へ行く
道すがら考えている。

一から話せば何時間あっても足りない。飲酒経緯か、問題飲酒か、
離脱症状か、断酒経緯か、どのあたりのことを話そうかと考えて、
結局例会での人の話を聞きながら、大体決めている。
トップバッターとなったら万事休すである。

ともかく、人の話を聞いている中で、自分自身が素直に
なっていき、話す内容も自然に決まっていく。
今日も、指名されたらこの辺の話をと思いながら、指名されずに
終わった。それはそれで別段構わない。

今日は印象に残ったのが母親に関する話が多かった事である。
母親に当たり散らかしてきた本人と、その母親。
家族に迷惑をかけ続けた母親本人。
散々苦しめ、悩ませた母親に、長年の断酒で立ち直った
自分の姿に「今は幸せ」と言ってもらっている本人。

話を聞きながら、自分の母親のことを思い出させられた。
18の若い力で私を産んだ母。
4人の子供を、自分の家族を支え切った母。
姉貴の様でもあり、この世でただ一人、私を理解して
見守ってくれていた母。
あまりにも早く逝ってしまったが、死してなお私を叱咤し、
最も大切な事を教えてくれた母。

話をしている人達は皆、それぞれ大変な苦労も修羅場も
あったであろうが、今はこうして共に喜びを分かち合っている。
羨ましくて、思わず涙ぐんでしまった。
今の私やカミサン、子供たちの姿を見て、彼女は喜んでくれて
いるのだろうか。もう夢にも見なくなって久しくなる。
叱るも良し、話をするも良し、たまには夢にでも出てきて
もらいたい。

終わりに院長先生の、例会は鏡であるとのお話があった。
人の体験談を聞く中で、過去の自分の姿をそこに見、
現在の自分に重ね、未来の姿をも映し見る事が出来る。

自らを鏡に映して襟を正す事は、常日頃の事であり、おそらく
一生の事でもある。鏡である例会も自らを振り返り、
今を確かめ、未来を描く上で大切なものであろう。

しっかり鏡を見れば、気付く事も多いものである。




雑感

2008年11月12日 | ノンジャンル
薬物依存に分類されるアルコール依存は、端的に言えば脳自体が
感じる快楽を維持しようとするものである。

制御というものは言葉を換えれば抑制であり、それが
アルコールによって麻痺しだすと、本能的な欲求が解放され、
しかも抑圧されることがないというのは、脳全体では
ないにしても、非常な快感を得ることが出来る。
その快感を維持するためであれば、生命活動を維持するのに
必要な最低限のことさえ無視する。

飲みたくもないのに飲み続けてしまう、飲まずにおれない。
身体は限界を越えていて、食べ物も受け付けない、吐き下しを
繰り返す状態であろうと、全くお構いなしである。
いわば、個人というよりも脳の一部の快感のために自らの肉体を
含め、他の全てを犠牲にしてしまう、究極の利己主義である。

このコントロールを完全に喪失した状態にある時には、
本人の意志など問題とはならない。
そもそも意志を司る脳の部位が麻痺してしまっている。
完全に薬物、アルコールに支配されている状態なのである。

この状態にあるものを、家族など周りの正気の者がどうにか
しようとしても無駄である。
正気の者が狂気の者に対すれば、全くの無力である。
ただ、本人に僅かであってもその状況から抜け出したい
気持ちがあれば、医療によって強制的にアルコールを離脱させ、
それに伴う厳しい症状を緩和させ、同時に病識を得さしめ、
同じ病気としての体験を持つ人が集う場でその病識をより鮮明に
体得せしめていくことで、抑制力、つまり意志を再び
取り戻させることができる。

失ったコントロールを再び取り戻した後に、どのような判断と
認識で生きていくのかは本人次第である。
再びコントロールを失い、死への道を歩むのか、
病識を風化させずに、回復の道を歩むのか。
まだ死にたくはない、生きていたいと断酒するも良し、
もうやりたい事をして死にたいと飲むのも良しである。
一人の身になった時には、いずれの選択をしたところで
その人本人次第であって、結果として周りに迷惑をかける
面を無視すれば、本人の自由意志で良いのである。

自分がいかに生きるかぐらいは自分で決めればよい。
せめて自分の命ぐらいは自分で責任を持とうではないか。
他人を妬み、あるいは卑下し、自己を憐れんだところで、
今の自分の立つ位置は変わらない。
むしろその位置を上げようと意図しながら下げていることに
気がつかない。
赤裸々の自分を見つめながらどう生きるのか、あるいは
死ぬのかを考え、行動していくほかはないのである。

わたしの断酒生活も三年半になろうとしている。
この時期は思考がかなり氾濫するので少し整理しておくつもりが
硬い記事となった。
今でも酒席で飲めたらと思うことはままある。
日常でも、もう大丈夫なのではないかと、ふと思う
場面や機会もある。
仮に飲んだとしても、また一からやり直せば良いという
先の弁解を想定して、飲んでしまおうかという性質の悪いことを
考えたりもする。

断酒は生きていく上で必要不可欠な事、生きる手段、
生きる最低条件、再飲酒は生きる意志の放棄などと、
硬いことを言ってみても、様々な状況、場面や機会に
「飲めたらなぁ」が消えることはない。
生きているのだから当然である。
これだけの体験をして、病識も持ち、正気の頭で
体得したのなら、仮に再飲酒したとしても、またまともな軌道に
立ち返ることができる。
断酒して立ち直った人も多いが、それ以上に再飲酒した
人の方が多い。それでも、再び立ち直っている人も多くいる。
自分も大丈夫だろう。
そんな自信がいつの間にか大きくなってきている。

これは、コントロールを取り戻した私の意志によって抑圧されて
きたものの現れである。この制御と抑圧されるもののバランスが
崩れると非常に危険である。
これまでにも何度となく経験してきたことなのだが、ここにきて、
ふっとその圧力を解放してやることができるようにもなってきた。
飲める、飲めないが問題ではなく、飲まないが自分の中では
信条というか、信念のようになってきている。
自分は飲まないで生きることに決めたのであって、
飲める飲めないはどうでもよいことである。

医学の進歩によって、この病気が完治される事となり、
再び適度な飲酒が可能となったとしても私は生きる信条に
反することとして、飲まないだろうと思う。
たとえ一時的にせよ、再び制御不能となること自体、
耐えられない。
生きていく上で、考え、心を決め、それを信じて、現実に
行動していくことが己の意志であるなら、そこに再び飲んで
酔うということ自体もうありえない。
それが意志であろうと、意地であろうと同じ事である。

ようやく、お酒に対して諦めがついたようである。
こればかりは、諦めの悪い私も、もういいじゃないか、
少なくとも囚われることはごめんだと、下手に力の入らない
ものとして心に落ち着いてきたようである。

あとは、何がどうであれ、自ら信ずるままに
生きるのみである。
そしてその姿に何かを感じてくれる者がいるなら、
善きにつけ悪しきにつけ、自身の存在の意味もあるのであろうし
自分ではわからずとも、幸せな事なのであろう。

それにしても、こうして書いていることは自分のこと
ばかりである。
自分のためだけに生きることはできず、かといって人のために
生きていく本当の意味での覚悟もなく、かろうじて、人の喜ぶ
笑顔を見て、自分の喜びと出来るに過ぎない。
何とも自分中心の思考の埒を越えられない自分を改めて見直して
いるようで、情けないことである。
いくつになっても、やっぱり、まだまだ、ここからであることに
変わりはないようだ。



感受性

2008年11月09日 | ノンジャンル
空を眺めていると、限りない空間の広がりを感じるのだが、
実はこの伸びやかな感慨も、地球の大気という殻の中にいる
安心感があるからである。

その証拠に、夜空に星が輝く時、大気は透明な膜となり、
途端に自身が無限の空間に相対する事となり、言い様の無い
寂寥感に襲われる。

同時に、その無限の時間と空間を感じる自身の内に、同じ広がりを
持つ小宇宙を観ずる事となる。

人が人たる所以は、原理法則を理解する科学的な思考に
とどまらず、感じる、観じるという、極めて稀な感受性を
持つところにある。

アポロ計画は、子供の頃リアルタイムで進められた
一大プロジェクトであった。その背景としては米ソの冷戦、
軍拡競争という暗いものがあったにせよ、人類が初めて故郷である
地球を離れ、宇宙空間へと旅立ち、月面に立つという事は想像だに
できない快挙であり、当時の子供達にとっては本当に衝撃的で、
夜も眠れないほどの興奮に包まれたものである。

一時、この事実が擬装であったとの議論がまことしやかになされた
ことがあったが、これは我々にとっては笑止な議論で、ここでは
触れる必要も無い。

人類にとって最も重要な事は、月面に立って星条旗を立てた
ことよりも、月に立った人間が故郷である青く美しき惑星、
地球を望んだ時に、ある者はそれまで信仰心など無かったのに
神を感じ、帰還した後に牧師となり、信仰を持っていたある者は
万物の創造主である神を信じなくなったという事である。

これは、特定の信仰について云々するわけではなく、
人の感受性について考えさせられる重要なポイントである。

アポロ計画より現在に至る軌跡は、月から地球を望んで信仰心を
失った者の描いたものではなかったか。
今、ようやく人々が気付き始めたのは、実証的事実を超えて
感じ、観ずる事が出来る人間の感受性こそが大切であるという
事ではないのか。

これから未来へ向けて描くべき軌跡は、無の空間に浮かぶ
青き惑星を眺めて神を感じたその感受性にこそ委ねられるべきと
思われる。

地上に立ち、星空を眺めながら感じるものを己心の中に観じ、
無限の空間へと向けた視点と共に、空間から内面へと向かう
視点を持つ先人が確かにいたはずである。

民間人が宇宙へと旅する事も特別では無い時代になっていく。
残念ながら私にとってはそれはかなわぬ夢であるだろうが、
月に立って地球を望む事が出来たとしたら、私の感受性はどう
反応するのだろうか。

どれほどの感動と、衝撃と、興奮に包まれるのかと
想像するだけでわくわくするのである。

願わくは、未来を生きる子供たちには、
このわくわくする想いと、実証を超えた感受性を
養ってもらいたいと思うのである。



人間の絆

2008年11月02日 | ノンジャンル
「人生に意味なんてものは無い」

saikiさんのところで紹介されていたサマーセットモームの
「人間の絆」(原題 Of Human Bondage)からの
引用である。

高校時代に原文を勉強した事を思い出した。もう30年近く
前のことになる。長文読解の教材だったろうか。

この言葉だけを見ると虚無的な印象があるが、内容はともかく
様々な人の様々な生き様を生き生きと描写していた様に思える。

人生に意味や目的、使命や意義など無く、ただその人なりの
生きる様を絨毯の模様のように、織り成していくのみであると
モームは言う。

今思い起こせば、それぞれの人が、その人生の意味や目的、
使命や意義を探したところで仕方が無い、なぜならそんなものは
もともと無く、自らが生きる中で創り上げていくものである
からだと解釈している。

それを自らが世に生まれ出た天命と信じる事が出来たなら、
それがその人の幸せであるかもしれない。

生きるという事は、意志である。

今、モームの言葉が心に響くのは、それなりに心の絨毯を
織り成してきたからでもあるだろう。

断酒は目的でもなく使命でももちろん無く、それ自体なんの
意味も無い。

断酒は意志である。

意志である以上、自分の織り成す人生の絨毯の一つの
模様であるだろう。

30年振りに、しっかりと読み直してみたいと思った。

saikiさん、どうもありがとうございます。