ALQUIT DAYS

The Great End of Life is not Knowledge but Action.

求めるもの

2008年11月23日 | ノンジャンル
どうも、生きていく、食べていくのに精いっぱいという時代では
ないせいか、人というものは平々凡々で、安穏たる日常には、
その幸せを感じるよりも退屈なつまらなさをより大きく
感じるようである。

そもそも人間自体が厄介な生き物である。
乱世には平安を求めながら、平安な時代には好んで乱を求める。
抑圧の時代に自由を求めながら、いざ自由になるとかえって
束縛を求める。集団の中で孤独を求めながら、いざ孤独になると
人恋しくなる。不安や心配のない世界にいれば、安心に飽き、
動乱を求める。

対極に考えるよりも、楽しみや喜びを感じる人間の自然な
情念として、常に自身が変化していくことを無意識に
自覚している限り、生きていく中に変化を求めているの
かもしれない。

そしてその変化は、出来れば少しの困難をもって、
大きな喜びや楽しさに繋がれば良いのであるが、多くの場合、
困難や苦悩が大きければ大きいほど、それを乗り越えた時の
喜びは更に大きい。

「そこに山があるから」という登山家のセリフは気障っぽいが、
登攀が困難であればあるほど、登頂の喜びは大きく、自身の内に
生きている実感と、躍動する命の横溢を感じるのであろう。
その瞬間、大自然を通じて、自身の内なる命と外なる命との
共鳴に身震いするような敬虔なものを感じるのかもしれない。

ともかくも、人間は、不自由なく獲得できるものには感謝の念も
喜びもあまり湧かないようである。
困難を克服して初めて手にする喜び、心に感じる喜びを
知っている以上、生きる上で真の安穏と歓びというものは
つまるところ、困難や苦悩の連続の中にあるのではないか。

次から次へと目の前に立ちはだかる壁に、悩み、苦しみ、
挑戦を続けながら、克服して無上の喜びを得るということを
繰り返していく中に、人生の醍醐味があるのかもしれない。
前へ進もうとするならば、物理的にも抵抗の作用は厳然とある。
時に疲れ果てて風のまま、流れのままに漂うことも
あるだろうが、漂っていることにもすぐに飽きてしまう。
再び抗うものを感じながら、前へ進もうとするのである。

繰り返すが、その日一日を生きることで精一杯の時代ではない。
明日をも知れぬ時代を生きた人々は、それはそれで幸せであった
かもしれない。
今は、来年も十分生きていける糧を持ちながら、今日自殺する
者が数知れないのである。

贅沢な時代になったものだと思われる人も多いだろうが、
現実には腹を空かせているものは少なくなったが、
心に飢餓感を持っているものは先の時代の比ではない。
少なくとも飢えの時代の人の心の方が満たされていたと
いうべきか。

病気で死んでいくものが多かった時代は、生きるものがかえって
逞しくなっていったように思えるが、医療が進んで長生きできる
ようになった現在の方が、生きる逞しさに欠けている様でもある。
むしろ、廃人同然にまで陥ったものが回復した場合、その人の
その後の生き様の方がかえって逞しい。

苦労は買ってでもしろとはよく言われたものだが、やはり生きる
ということは、人の思考と行動である以上、困難を求め、挑戦し、
克服して最高の歓びを感じることを繰り返していくことなの
かもしれないと思うのである。