ALQUIT DAYS

The Great End of Life is not Knowledge but Action.

雑感

2008年11月12日 | ノンジャンル
薬物依存に分類されるアルコール依存は、端的に言えば脳自体が
感じる快楽を維持しようとするものである。

制御というものは言葉を換えれば抑制であり、それが
アルコールによって麻痺しだすと、本能的な欲求が解放され、
しかも抑圧されることがないというのは、脳全体では
ないにしても、非常な快感を得ることが出来る。
その快感を維持するためであれば、生命活動を維持するのに
必要な最低限のことさえ無視する。

飲みたくもないのに飲み続けてしまう、飲まずにおれない。
身体は限界を越えていて、食べ物も受け付けない、吐き下しを
繰り返す状態であろうと、全くお構いなしである。
いわば、個人というよりも脳の一部の快感のために自らの肉体を
含め、他の全てを犠牲にしてしまう、究極の利己主義である。

このコントロールを完全に喪失した状態にある時には、
本人の意志など問題とはならない。
そもそも意志を司る脳の部位が麻痺してしまっている。
完全に薬物、アルコールに支配されている状態なのである。

この状態にあるものを、家族など周りの正気の者がどうにか
しようとしても無駄である。
正気の者が狂気の者に対すれば、全くの無力である。
ただ、本人に僅かであってもその状況から抜け出したい
気持ちがあれば、医療によって強制的にアルコールを離脱させ、
それに伴う厳しい症状を緩和させ、同時に病識を得さしめ、
同じ病気としての体験を持つ人が集う場でその病識をより鮮明に
体得せしめていくことで、抑制力、つまり意志を再び
取り戻させることができる。

失ったコントロールを再び取り戻した後に、どのような判断と
認識で生きていくのかは本人次第である。
再びコントロールを失い、死への道を歩むのか、
病識を風化させずに、回復の道を歩むのか。
まだ死にたくはない、生きていたいと断酒するも良し、
もうやりたい事をして死にたいと飲むのも良しである。
一人の身になった時には、いずれの選択をしたところで
その人本人次第であって、結果として周りに迷惑をかける
面を無視すれば、本人の自由意志で良いのである。

自分がいかに生きるかぐらいは自分で決めればよい。
せめて自分の命ぐらいは自分で責任を持とうではないか。
他人を妬み、あるいは卑下し、自己を憐れんだところで、
今の自分の立つ位置は変わらない。
むしろその位置を上げようと意図しながら下げていることに
気がつかない。
赤裸々の自分を見つめながらどう生きるのか、あるいは
死ぬのかを考え、行動していくほかはないのである。

わたしの断酒生活も三年半になろうとしている。
この時期は思考がかなり氾濫するので少し整理しておくつもりが
硬い記事となった。
今でも酒席で飲めたらと思うことはままある。
日常でも、もう大丈夫なのではないかと、ふと思う
場面や機会もある。
仮に飲んだとしても、また一からやり直せば良いという
先の弁解を想定して、飲んでしまおうかという性質の悪いことを
考えたりもする。

断酒は生きていく上で必要不可欠な事、生きる手段、
生きる最低条件、再飲酒は生きる意志の放棄などと、
硬いことを言ってみても、様々な状況、場面や機会に
「飲めたらなぁ」が消えることはない。
生きているのだから当然である。
これだけの体験をして、病識も持ち、正気の頭で
体得したのなら、仮に再飲酒したとしても、またまともな軌道に
立ち返ることができる。
断酒して立ち直った人も多いが、それ以上に再飲酒した
人の方が多い。それでも、再び立ち直っている人も多くいる。
自分も大丈夫だろう。
そんな自信がいつの間にか大きくなってきている。

これは、コントロールを取り戻した私の意志によって抑圧されて
きたものの現れである。この制御と抑圧されるもののバランスが
崩れると非常に危険である。
これまでにも何度となく経験してきたことなのだが、ここにきて、
ふっとその圧力を解放してやることができるようにもなってきた。
飲める、飲めないが問題ではなく、飲まないが自分の中では
信条というか、信念のようになってきている。
自分は飲まないで生きることに決めたのであって、
飲める飲めないはどうでもよいことである。

医学の進歩によって、この病気が完治される事となり、
再び適度な飲酒が可能となったとしても私は生きる信条に
反することとして、飲まないだろうと思う。
たとえ一時的にせよ、再び制御不能となること自体、
耐えられない。
生きていく上で、考え、心を決め、それを信じて、現実に
行動していくことが己の意志であるなら、そこに再び飲んで
酔うということ自体もうありえない。
それが意志であろうと、意地であろうと同じ事である。

ようやく、お酒に対して諦めがついたようである。
こればかりは、諦めの悪い私も、もういいじゃないか、
少なくとも囚われることはごめんだと、下手に力の入らない
ものとして心に落ち着いてきたようである。

あとは、何がどうであれ、自ら信ずるままに
生きるのみである。
そしてその姿に何かを感じてくれる者がいるなら、
善きにつけ悪しきにつけ、自身の存在の意味もあるのであろうし
自分ではわからずとも、幸せな事なのであろう。

それにしても、こうして書いていることは自分のこと
ばかりである。
自分のためだけに生きることはできず、かといって人のために
生きていく本当の意味での覚悟もなく、かろうじて、人の喜ぶ
笑顔を見て、自分の喜びと出来るに過ぎない。
何とも自分中心の思考の埒を越えられない自分を改めて見直して
いるようで、情けないことである。
いくつになっても、やっぱり、まだまだ、ここからであることに
変わりはないようだ。