ALQUIT DAYS

The Great End of Life is not Knowledge but Action.

流転

2018年11月14日 | ノンジャンル
確か中学生の頃だったと思う。
「自分はなぜ自分と認識しているのか」

この疑問にぶつかってから、はや40年以上の
月日が経つが、いまだにわからない。

その間、折に触れて考え続けてきたのにである。

生命というものは、ひとことで言えば混沌である。
その具象化自体は、無限の多様性を持つ。

つまり、混沌を無と観て、具象を有と観るなら、
それは元々あったということになる。
いわゆる、「空」の概念である。

その具象化という事においては、やはり自身を
認識し、他者を認識し、空間を認識し、
時間を認識し、絶え間ない変化の連続である
事象を認識することができるのが、その最高で
あるかもしれない。

転生というものを信じることはできないが、
連続、あるいは流転というものは信じられる。

とすれば、やはり、今の時代にこの世界に生まれ、
それを包括して自身というものを認識して
いるのが、初めてなのではないかと思う。

流転の中で、再び最高の具象化ができるとは
限らない。
認識できているのが今であれば、過去世も来世も
むしろ問題ではなくなる。

自らの認識において、自らの思想と振る舞いを
いかにして今世を過ごすのか、それこそが
問題なのである。

端的に言えば、今世の生き方ということであろう。

なぜなら、認識できるという最高の生命の具象に
おいてのみ、自ら生き方を決められるからである。

今生の思い出をどのようなものにするのか。
それは、死を眼前にした時に、消えていく
富や権力、まして崩壊する肉体でもなく、
自身の一生の総決算として残る思い出である。

最後の認識となるこの思い出がどのような
ものであるのか。

それは自ら決め、進んできた、自分が自分である
証、つまり、自身の生き方そのものなのである。





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6 Comments

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Unknown (はる)
2018-11-15 21:41:09
ダンディズムとはかくも厳しきものなるかなと実感致し居り候。


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Unknown (jetlinks)
2018-11-15 21:58:47
要するに、己が信ずる道を
あるがままに歩むということなんでしょうね。
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Unknown (はる)
2018-11-15 23:34:09
形而上的或いは埴谷雄高的に言うと「自同律」の問題に行き着くと思います。

自分が何故自分であるのかという命題です。

それを埴谷は「不快」だと言った。

これがあの「死霊」のテーマなんですが

私にも分かりません。但し、快不快という極、人間実のある展開に持っていった事は埴谷さんの本当のヒューマニズ又は愛の問題に接近してはいるのではと思います。

P.S 古典ではありますが9章だけでも時間があれば読みたいと思っておるところです。
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Unknown (はる)
2018-11-16 00:04:53
追加と訂正

埴谷氏が快不快というごく人間味のある感性のレベルに自動律の問題を展開した理由が実はあるのだと思います。

台湾が日本の植民地であった時代から敗戦を経て戦後文学の新しい地平を開かんとして「近代文学」によって存在と宇宙の秘密に迫らんとした戦後文学でも稀有の作家。

『死霊』イエス、釈迦、大雄なども出てきて結構面白いです。

端から読まない人が多い。私も飛ばし読みですが睡眠薬としては、最強であります。

「1日1頁」と言うところです。
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Unknown (jetlinks)
2018-11-16 01:26:42
差別の根幹は、まさしく上位というものです。
埴谷氏はその上位を弾劾しようとしたの
でしょうが、神や仏、悪魔も一身に収まるもので
あるとし、他者にある神や仏を敬い、礼拝したのが
釈迦の過去世とされる不軽菩薩の振舞いです。
つまり、上下位は無いとするのが釈迦の思想です。
ではいかに生きるのか、それが自分たりうる
答えとなるのかもしれません。
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Unknown (jetlinks)
2018-11-16 11:44:29
少々、命題から外れてしまったようです。

「死霊」を読んでみたいと思います。
ありがとうございました。
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