ALQUIT DAYS

The Great End of Life is not Knowledge but Action.

遠く近い道

2007年01月24日 | ノンジャンル
風邪の症状も落ち着いて来ると同時に、思考も少々落ち着きを
見せるようで、前回の記事を見直すに、微熱の影響からか、論調が
熱くなっているような気がしたので、補足的に今回の記事で、
バランスを取りたい。

往々にして、依存症本人を加害者、家族を被害者として見る
向きがあるが、これは、例えば、客観的な観点が必要とされる時や、
便宜上、こういう立て分けで話を展開する場合には有効であっても、
実情は、家族というものは、本人も含めてのものであって、その中で、
刑法的な立割で、加害者、被害者などという概念を適応することは
出来ない。

つまり、加害者である依存症本人が、被害者である家族に対して
償いを行うというのは、心構えとしては良しとしながらも、本来の
家族のあり方ではない。
事実、加害者が償いの責務を負い、被害者がその償いを当然とする
ような関係が、家族の中で存在するとすれば、それはもう、
家族として成り立っていない。

お互いが、それぞれの出来ることをしながら支え合い、寄り添って
家族の暮らしというものを守っている以上、そこに、契約的なもの、
貸借的なものがもしもあれば、その家族は、本来の意味を失って
しまっており、家族自体が崩壊することは、目に見えている。

本人は、苦労や迷惑を掛けた分、それを越える幸せを、
共に感じられる様に、出来る事を頑張っていけば良い。
家族は、本人のその姿を見て、過去の傷を少しずつ癒しながら、
過去には想像も出来なかった、楽しい日々を共に
過ごしていけば良い。

本人も含めて家族である以上、皆が互いに赦しあい、励ましあって、
平凡たる大切な日々を分かちながら、前を向いて過ごす事が、
本人にとっても、家族にとってもの、回復という事だと考えている。

どれだけ迷惑を掛けられたか、どれほど傷つけられたか
ということに、いつまでも囚われていては、回復の道は遥かに
遠いものとなってしまう。

殴った者はすぐに忘れ、殴られた者はいつまでも覚えて
いるものだが、殴られたことは赦した上で早く忘れ、
殴ったことは赦された上で、覚えておくというのが、
回復への遠くて近い道のような気がするのである。



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