ALQUIT DAYS

The Great End of Life is not Knowledge but Action.

溶かすもの

2007年09月07日 | ノンジャンル
化学の授業を思い出してもらいたいのだが、液に溶けている
物質を溶質といい、溶かしている液を溶媒という。

小難しい話ではなくて、お酒を溶媒だとすると、何を溶かして
いたのだろうかと、ふと考えていた。

若い頃の純粋さと、情熱というものは、知らず知らずのうちに
汚され、消耗されてしまうものかもしれない。それが大人に
なるという事だと言ってしまえばそれまでだが、成長には
消耗が相反して存在する。

不条理で、筋の通らない世の中に社会人として飛び出した途端、
この消耗というものが始まる。もちろん、成長も飛躍的に進む。
純粋な思いは、かえって邪魔となり、純粋に生きたいという
思いと相反する環境の中で、さまざまな自身の葛藤を積み上げる
中、どうしようもない鬱屈したものが心の奥底に溜まっていく。

思い通りに行く事などほんの僅かでしかない。その鬱屈は、
どうにかして処理しなければ、臨界を越えてしまうとその人
自身が崩壊してしまう危険がある。

人それぞれ、その鬱屈の開放の仕方はいろいろであろうが、
私の場合は、お酒で溶かしてしまうことを覚えてしまった。
あるいは、本来神経質とまではいかなくとも、多感で、過敏な
自身にとっては、社会の不条理さというものが耐え切れなく
感じていたであろうが、それをお酒で鈍磨するという面も
あったであろう。

鬱屈を溶かし、神経を麻痺させるお酒の効能は、ある意味、
自身にとってはある時期までは、必要な要素であったに
違いない。だが、社会生活も年数を経て、それなりの成長と
消耗を遂げた後には、もう必要ではなくなっていたはずで
あるのに、飲酒自体も習慣化しており、いつしか
コントロールが難しくなってしまったようである。

さて、断酒をして、「溶かすもの」、「麻痺させるもの」が
なくなったわけだが、別段、不自由はない。お酒で溶かし、
お酒で麻痺させることしかできなかったのが、今では、
さまざまな「溶かすもの」が多くあることに気づき、
自分自身を、努めて鈍感にさせることもできるように
なってきた。

家族との団欒、食事、休日のお出掛け、運動、朝寝坊、
などなど、些細なことではあるが、そうした日常で少しずつ
溶かすことができている。
直接、自分に関わりのない事柄については、あまり考えない
ようにして、鈍感力も養おうとしている。

つまり、簡単に言うと、お酒がなくても十分楽しく、
一日一日を暮らしていけるではないかという感慨なのである。



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