ALQUIT DAYS

The Great End of Life is not Knowledge but Action.

狂信

2007年09月06日 | ノンジャンル
基本的に、信仰の自由というものは絶対に侵されては
ならないと思うのだが、宗教というものにおいて、高低浅深が
あるという事は客観的に見て認識できる。

本来、宗教というものは根源的な根本の教えである以上、
その影響というのは測り知れないものがある。

常に私の尺度というものは、客観的に見てその教えが道理に
即しているか、科学的であるか、そして現実面で、その教えの
通りの結果ともいうべきことが現出して、証明されるかという
点を重視する。

その尺度において、疑問を持たざるを得ないのが、回教と
キリスト教である。

処女マリヤの懐妊、イエスの処刑後の復活など、寓話として
みても、きわめて非科学的で、信仰の対象とはなりえない。
教えにおいて、その文献は、たとえばキリスト教であれば聖書、
回教であれば法典、仏教であれば経文となるが、それぞれを
研究して、それが科学的且つ世法、道理、真理というものに
適っていれば、後は現実面での実証を求めれば良いわけだが、
キリスト教、回教においては、その文献においてすでに破綻
しているように思える。

仮に、理論では説明も理解も不能な要素があるとして、
現実面を歴史においてみてみると、これまた、いずれも争いと
血に塗られたものとなっている。人の幸福を目指したものが、
そもそもの教えではなかったのか。

実を言えば、文献の検証以前の問題として、現実的な
出来事において、どうしても理解できないことがある。

回教については、言うまでもなく、今尚続けられる戦争と、
殉教の名のもとに繰り返される自爆テロなど、幸福という
根本目的とは懸け離れた現実がある。
彼らは、それを聖戦と呼ぶが、結果としては血を流し、
流させているに過ぎない。
異なる文化、宗教、いやむしろ、異なる民族を排斥しようと
している姿にしか見えないのである。

キリスト教においては、多くの血の歴史があるが、たとえば
ナチスのユダヤ人虐殺などは、なにもナチスだけで行われた
わけではない。その背景には、ユダヤ教、しいてはユダヤ人に
対する憎悪と排斥の心が、キリスト教信者のうちにありありと
見て取ることができる。
汝の敵を愛せと教える彼らのうちの憎悪が、あの大量虐殺に
繋がっていったことは、否定しようがないのである。


それにもまして、私の疑念の中心になる出来事は、史上初めて
人類の上に投下された2つの原子爆弾のひとつが、長崎に落と
されたことである。

日本で唯一、キリスト教が本格的に広められた土地であり、
故に数多くの迫害を受けてきたところでもある長崎に、何故に
アメリカ人の手によって原爆が投下されたのか。
試練というなら、それまでに十分以上の試練を耐えてきた人々が
何故に悪魔の所業ともいえる原爆投下という過酷な試練を
受けねばならなかったのか。

私には到底理解できないが、現実の証明であるいじょう、その
教え自体が破綻しているとしか考えられない。

日本では、鎌倉時代に急速に仏教が広まったが、この頃に初めて
元寇という、他国の侵攻の危機に瀕している。
偶然といえばそれまでだが、2度の侵攻を、2度とも台風に
よって防ぎ、時代の世界の覇者とも言える元の攻勢を免れた。
一国の、民族の危機を脱したという、実証がある。

これに反し、国家守護の神道を利用し、先の大戦に、狂気の
うちに突入していった狂信の結果は、周知のように全面降伏、
国家、民族存亡の危機にまで至ったのである。

人間は、自ら望んで社会を形成し、その中で自らが生きていく
意義を見出し、幸福であらんと願うのであり、その為にこそ、
理性というものを形成してきたのである。
教えというものは、この理性を強化し、本能を抑えるものと
いうよりは、本能を昇華させる力を持つものでなければ
ならないはずである。

本能を抑えることを主体とした教えは、やがて抑えきれない
本能の大爆発を生むことになる。
本能を悪とするのではなく、ありのまま、その躍動する力を、
建設的な方向へと、現実的に向けることができるものこそ、
普遍の教えであると思われる。

その教えは、当然ながら、民族、国家を問わず、真理と同じく、
宇宙大の広がり、つまり、普遍性を持つであろう。
できることなら、この世に生のある間に、その普遍的な教えに
触れ、真理を悟りたいものである。

狂信には縁がなかった自身ではあるが、心の狂態という経験を
した以上、その同じ経験は真っ平ごめんであり、真理の悟り
というものを、切に願うのである。




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