ALQUIT DAYS

The Great End of Life is not Knowledge but Action.

別れの儀式

2007年09月04日 | ノンジャンル
自分にとって、お酒が元凶だと、ようやく自覚して、それまで
欠かさなかった晩酌を極端にもピタリと止めた時点では、
もう一生飲めない、あるいは、飲まないというところまでの
認識は無かったように思える。

まずは、飲まないでもいられるという、一つの実証が
欲しかった事も否めない。
現に、自分としては、その後、「適度」な量に制限するつもりで
いたはずである。

ところが、一日も経たぬうちに離脱症状が出て、それが離脱症状
だと悟り、自身が疑う余地も無く依存症である事を悟ったのが、
幻覚が現れてからであった。

つまり、自分ではまだ飲めるつもりでいたのが、突然、もう一切、
一生、飲めないというところへ、放り込まれたようなものであった。

誰しもが思うことであろうが、どうせなら、最後にたらふく
飲んでおけば良かったと思うこともしばしばであった。
いわゆるお別れ会といったもので、これをやってしまうと、結局は
お別れが余計出来なくなってしまう。

離脱症状に苦しみ、病院へと繋がって、自身が依存症である
という事が疑いようがなくなったときは、飲むどころでは
なかったが、ちゃんとした、けじめみたいなものが無いままに、
飲めなくなってしまったことに、なんともいえない淋しさを
感じた時期もあった。

いわゆる、お別れ会が出来なかった事に対する淋しさである。
今も尚、この淋しさが消える事はないのだが、仮に、お別れ会
なるものをした場合、その後、何度も、これが最後、これが最後と、
お別れ会を繰り返す事になることもありありと目に見える。
物事を始める、何かを変えるという時は、思い立ったが
ということであり、形式的な節目やけじめというものは、ある面、
どうでもいいことなのかもしれない。

かえって、形式に囚われすぎることは、そのチャンスを逃して
しまうという結果に繋がってしまう。
一抹の淋しさはあるものの、「お酒が元凶なのだから、一旦、
お酒を止める」という事があって、それが、一生飲めない、
一生飲まないに繋がったのだから、結果的には最良であったと
言わざるを得ない。

これが最後、これが最後と言いながら、断酒のチャンスを逃し続け、
飲み続けてしまうのは、この病気の典型的な症状である。 
そこから抜け出せた以上、今も感じている、その淋しさなどは、
贅沢というものである。抜け出せなかった場合、その淋しさは、
遥かに大きな代償となる。

身の破滅、精神の破綻、そして、悔恨も及ばない、死へと繋がって
しまうのである。
現実、そうして死へと繋がっていってしまった人のなんと多い事か。

人は死ぬ為に生きているのではない。むしろ、死があるからこそ、
如何に生きるかということに悩み、苦しむのである。 
いつか迎える死のときまで、人は生き抜かなくてはならない。

それをさせないで、直接死へと我々を繋げてしまうのが、
この病気なのである。



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2 Comments

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Unknown (hqppy)
2007-09-05 22:34:41
断酒会でよく聞く話ですね。
今日が最後だから、たらふく飲もう!!という毎日。
亭主にどこかで聞いたこんな言葉を言ったことがあります。
「今日できるひとは、明日もできる。今日できない人は明日もできない」
返信する
Unknown (jetlinks)
2007-09-05 23:13:06
そうですね。

明日から、明日からと言っていると、次の日になっても、「明日から」となってしまいます。

今、この時に決断して、何をするかが
大切なのです。
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