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『だれのものでもないチェレ』

2010-02-10 23:23:33 | 映画(映画館)
Árvácska@渋谷シネマ・アンジェリカ、ラースロー・ラノーディ監督(1976年ハンガリー)
小さな少女チェレのたどる過酷な運命を描いた幻の傑作が、ニュープリントで31年ぶりにリバイバル上映されることになった。
1930年代初頭、ホルティ独裁政権下のハンガリー。孤児(原題も“みなし子”の意)を引き取ると養育費としていくらかのお金を受け取れる制度があり、富農たちは労働力として使うことも兼ねて孤児を養っていた。少女チェレもある農家に引き取られていたが、裸のまま牛追いなどで働かされ、餓えや寒さ、大人たちの虐待に耐え続ける日々。ある日、その家の女の子と、スイカの帽子と服を交換して、服を着て帰ったところ「盗んだ」と見なされ激しい折檻を受ける。
耐えかねたチェレは家出をするが、すぐ孤児院に収容され、再び非情な養親に引き取られてしまう。そこで使用人として働く老人とともに馬小屋で暮らすチェレは、老人の優しさに、初めて心の交流を知る。だが、その先には、さらに過酷な運命が待ち受けていた…。



「生きづらさを生きる」的なテーマに特化したネットラジオ(一部地上波でもOA)を聞いていて印象的な言葉が。「『ちびまる子ちゃん』を見たとき、SFだと思った」。
そう語ったのは「絶叫詩人」を名乗るアイコという女性で、子ども時代に両親の離婚や祖父からの虐待を経験して、後に不登校や心の病にも悩まされた彼女にとって、ちびまる子ちゃんで描かれる一家団欒や優しい祖父が、SFのようなフィクションに感じられたという。
小さな子どもにとって、親や家族などの生育環境は、世界のすべて。もしそれが、親から捨てられたとか、親から虐待されるとかであるとすれば、どれほど悲しい人生だろうか。
この映画の悲しさは、いわゆる「小さな子どもの出てくる、泣ける映画」とかの域を超える。あまりに救いがない。しかしそれは、主人公の少女にとって逃げ出すことのできない現実なのだ。ハンガリーの作家ジグムンド・モーリツが、自殺を図ろうとした19歳の少女から聞いた実体験に基づいて書いた中篇小説を原作とする。
1930年代の同国の孤児たちに「人権」なんてものはない。虫けらのごとくあつかわれる。2つ目の養親もひどく腹黒いが、1つ目の養親は腹黒いというより、確信的に野蛮だ。女の子を素っ裸で働かせるというのも信じがたいが、さらに心をえぐるエピソードは、チェレが畑のスイカを食べて、その皮を帽子代わりにして遊んでいると、養家の娘がそれを欲しがって、服と交換することになる。だが養母が見つけて怒り、再びチェレは素っ裸。
夕食の時間になっても、うなだれたままのチェレは食べるのを拒否して、またまた養母の怒りを買う。さらに養父は、チェレが抱えているスイカの皮が畑のものだと知って「盗んだ」と怒り狂い、暖炉の中から取り出した真っ赤な炭火をチェレの手のひらに押し付ける。それはひど過ぎると止める養母も、「盗みは許さない。この世におまえのものはない。持っているのは体だけだ」と言い放つ。
なにひとつ持っていないとすれば、盗むしかないではないか。『闇金ウシジマくん』に出てくる最悪の登場人物よりも、どす黒い。
彼らは、行政から養育費としてお金をもらえるので、孤児たちに最低限の住みかと食べものを用意して、こき使う。わが国で生活保護の受給者にひどい住居を与えてお金をむしり取るヤクザ・貧困ビジネスの者どもをも連想させるが、そこではむしり取られる者も、いい年をしていて多少は自己責任も認められるのに対し、チェレはわずか7つか8つの女の子で、その地獄のような世界が彼女にとって全世界なのだ。ひど過ぎる。
子どもは、教えられなければ、外の世界を知ることができない。大人の責任は大きいと言わざるをえないし、逆に考えれば何も教えないで一生奴隷のようにこき使うこともできるということだ。実際、わが国の大学生には「利率いくらいくらで借金したら、どのように返済しなければならないか」ということを計算できない者が少なくない。貸す側の言うなり。
そこで問いたい。そんな学生というか、利率の計算さえできない者に、ヤクザ者以外に誰がお金を貸すだろうか。きちんと借金を返済することを可能にするような、付加価値のある仕事ができるはずがないからだ。
というのも、国家破綻の危機と伝えられるギリシャをはじめ、アイスランド、ポルトガル、この映画のハンガリーなど、ヨーロッパのわりと辺境に位置する小国が軒並み債務超過となっている。その裏側には、目先の利益ばかり追って、長期的な成長戦略を描くことのできない、まるで映画の因業な養親のようなエゴイズムと人権無視の政治体制が横たわってはいないだろうか。いやお金を貸す側=先進諸国にも問題あるとは思いますけど。
貸す側の雑誌である週刊東洋経済2月6日号に『2020年の世界と日本。世界の賢者34人が語る大局観!』との特集が。傾聴に値する発言はほとんど見当たらないが、中でも大前研一がひどい。

「まず挙げられるのはユーロの強さだ。世界でただ一つの規律ある通貨で財政的な裏付けがある。(中略)EUにとってロシアを経済的な関係で取り込んでしまえば、軍事的な脅威もなくなってしまう。(中略)20年の中国のGDPは現在の2倍になっているだろう。日本は、20年代にはインドに抜かれ、30年までにはブラジル、インドネシアの後塵を拝することになると予測する。
さらに2050年の中国のGDPは日本の10倍になっている。日本はそのとき大国の側に寄り添う小国になっている。これを私は“10%国家”と呼んでいる。もっとも日中2000年の歴史を振り返れば、日本はずっと中国の10分の1であって、この100年が特別なだけ。10%国家であっても卑下する必要はなく、アメリカに対するカナダ、ドイツに対するスイスやデンマークのようなものになればよい。こうした国々は、質では決して劣っておらず強い存在感がある。日本はそうした存在を目指すべきだ。
グローバルに見てこれから10年で起こること、それは新興国の爆発的な成長だ」。

ひえ~~、バカじゃん。新興国に投資して、「爆発的に儲かる」と思います??これまで十中八九は失敗でしたよね。
上から目線で、政治とか統計の数字とかを見て、人間そのものを見てないから、こうした愚かな発言をしてしまう。中国が経済成長するのは間違いないが、人権や表現の自由がないということは、「世界の工場」というより以上の存在となる上で大きな阻害要因となる。それが解決されたとしても、かの国の膨大な人口が所得を伸ばせるだけの原資=お金よりも資源・エネルギー・食糧が足りないのは明らか。パワーゲームの駒の数が増える一方のこの世界は、あまりにも複雑で予測のつかないことだらけで不安だ。


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