数年前ブラームスの20曲を選んで記事化したが、その後に良い曲がたくさん見つかり、恥ずかしい思いをして後悔する結果に。クラシックの有名な作曲家はロックなどと異なりおおむね生涯にわたって広いジャンルの曲を書いているため、全貌を把握することは困難。この種の企画も、どこかで折り合いを付けるか、あるいは何度もやり直すか。
1845年、南フランスのパミエで生まれたガブリエル・フォーレは子どもの頃に音楽の才能が開花、教会付きのオルガン奏者と合唱指揮者を志し9歳のときパリの寄宿学校に旅立つ。カミーユ・サン=サーンスがこの学校のピアノ教師としてシューマンやワーグナーのような同時代のドイツ音楽を導入、やがて学生フォーレの才能に気づき、友情を結ぶ。
卒業後パリの教会でオルガン奏者・合唱指揮者になっていたフォーレは、フランス国民の統合を音楽によって図るべく創設された国立音楽協会の会員になる。彼の作曲の多くは協会主催のコンサートで初演されることに。 30代になり作曲家として成功し始めるもパリ音楽院の学長という重職に就いたため多忙となり、夏季は避暑地に逃れて作曲に没頭。元来陽気な性格で女性関係も奔放を極めたが、作曲家としての評価への不満、フォーレ門下で斬新な才能を発揮したラヴェルが旧弊な楽壇の冷遇により独立音楽協会を旗揚げするなど音楽の仕事に起因する悩みは続き、晩年にはひどい難聴にも悩まされ、作風も内面に沈潜するよう変化していく。1924年秋、遺作となる最初で最後の弦楽四重奏曲を完成させた2ヵ月後に肺炎のため死去。79歳。
第一次大戦の時期にはサン=サーンスを筆頭にドイツ音楽を排斥する動きがあったが、フォーレは自らの芸術を「あらゆる国家からあまりに彼方の上の方に位置するある国に属するもの」と位置づけ、先立つ1908年には次男フィリップに「私にとって芸術、とりわけ音楽とは、可能な限り人間をいまある現実から引き上げてくれるものなのだ」と書き残している。同感至極。
Cantique de Jean Racine, Op. 11 (1865)
3 Songs, Op. 8 - 1. Au bord de l'eau (1875)
Après un rêve, Op. 7/1 (1878)
Elégie, Op. 24 (1883)
これらのチェロとピアノによる短い曲がフォーレでは最も人口に膾炙しているのかな。同じアルバムに入っているSicilienneという曲は70年代の朝ドラテーマ曲のように煽情的・感傷的。NHKは当時から権威を装う事大主義であったが今ほど腐敗しておらず良心的な面があった。
Requiem, Op. 48 - 4. Pie Jesu (1900)
Requiem, Op. 48 - 7. In paradisum (1900)
Pavane, Op. 50 (1888)
男声合唱によるレクイエム、7digital(という販売サイトがあった)時代にアルバム単位でDL購入してよく聞いた。Pie Jesuでソロを取るボーイソプラノの儚い美しさ…。フォーレは自身のレクイエムについて「宗教的幻想が自分にもたらした楽しみすべてをレクイエムに込めた。永遠の安息への信仰という非常に人間的な感情が最初から最後まで貫く」と述べた。 Pavaneも朝ドラっぽい。
Dolly, Op. 56 - 1. Berceuse (1894)
Ave verum, Op. 65/1 (1894)
Une châtelaine en sa tour, Op. 110 (1918)
ヘッダー画像=40代終りのフォーレがダブル不倫関係にあったとされるエンマ・バルダックの娘=愛称ドリー=にピアノを教える様子。